火焔を従える者

 ぴたりとマツラを指して止まった刃の上で、小さな炎が踊っていた。
 息を止めて目を見開いたマツラに、女は僅かに眉をあげる。

「どうしたマツラ、身体が固まってるよ」

 落ち着いた低音は、耳を右から左へするりと通り抜けてゆく。

「戦え。腑抜けた表情を晒すな」

 淡々とした声に、マツラは彼女が剣を振ると直感する。同時に、ケムリが叫んだ。

「マツラ!!」

 師の声に弾かれるようにして、マツラは身を翻す。
 突然現れた見知らぬ女から逃げようと、一目散に演習場の反対側を目指した。
 心臓が苦しい。
 頭の中で警鐘が鳴る。「殺される」と。
 瞬間、身体が奥底から冷えた。
 初めて魔獣を見たときや、魔王と向かい合った時、ケムリと対峙した時とも違う。
 長い黒髪の女は、傷つけようとする意思をもってマツラを見ていた。

「背を向けてどうするつもりだ。敵から目を逸らすな」

 自らを敵だと口にした女の声に続いて、熱の波がマツラを襲う。

「っ……!!」
「背を向ければ焼かれると思え」

 熱したフライパンから立ち昇る熱を思わせる空気に思わず振り返ると、女の手にある剣を包むように紅い炎が渦を巻いていた。
 あたりの冷気を掻き消す異常な熱は、間違いなく彼女が持つ剣から放たれている。

「さあ、戦いなマツラ。さもなくば、はるか北の火の山より得たこの剣がお前を焼き尽くすよ」

 女の言葉は低く重く、熱風に乗ってマツラに届く。
 物騒な言葉に偽りが無いことは目を見れば明らかだ。
 彼女は本気でマツラを焼き殺すつもりなのだ。
 ぞわりと全身が震えた。
 冷たい空気のせいだけではない。
 女の放つ圧倒的な気迫に逃げる足は止まり、マツラは立ちつくした。

「戦え! ここで私に負けるようじゃ、魔王討伐なんて夢のまた夢だよ!!」

 冗談じゃない。
 魔王なんかよりも、炎を纏った剣を持つこの女のほうがよっぽど恐ろしいのに。
 大きな曲線を描いた炎は、女とマツラを包み込む。
 頬がじりじりと焼ける。
 逃げなければ、燃やし尽くされてしまう。
 けれど、どこへ?
 広い演習場で、マツラはとにかく女の攻撃から逃げる事だけを考えていた。
 けれど、きっと彼女はどんなに逃げても追いかけてくる。
 マツラが彼女の満足する行動をとらない限り、この女はマツラに攻撃することを止めないだろう。
 女がゆっくりと剣を持つ手を動かす。
 剣術が全くわからないマツラにも、その動作が何らかの技に至る所作なのだと容易に想像できた。

「安心おし。演習場の怪我なんて致命傷にもならない。何があったって死にゃしないんだから」

 女を中心に、炎が走る。
 地面から湯気が立ち上り、冬の空気はどこかへ消し飛んだ。
 マツラは全身をこわばらせて周囲を確認した。
 逃げる場所なんて、無い。
 ケムリはどこか絶望したような表情で女を見ている。
 彼は、自分ではこの女に勝てない事を知っているようだった。

「さあ」

 す、と目を細めた女が、炎を纏う剣を高く掲げた。

「ワタシを打ち負かしてみな!!」

 強く言い放った声に続いて、女の周りの炎が高く立ちあがる。
 見上げた炎の柱は、ゆらりと揺らめいて龍の姿をとると一度宙に炎の虹を描く。
 見下ろす炎の竜と目が合ったような気がした。
 身体が震える。あたりの熱に対して、自分の体温が下がっていく。
 マツラを見下ろした炎の龍は、次の瞬間まっすぐにマツラを目指し、燃える体躯を延ばす。

 嫌だ、怖い。
 こんなモノの相手なんて出来る訳が無い。
 例え死ぬ事は無いと保証されていていても、こんな恐ろしいものを相手にどうすればいいというのか。

 熱風に視界が遮られる。
 目が焼ける。熱が痛い。
 自分を包む空気が、吸い込む熱気が、マツラを燃やそうとする。
 耐えきれずにあげた自分の悲鳴が、耳に痛い。
 身の回りの全てが熱くて、痛い。

 助けて。
 誰か、助けて。
 でも知っている。
 そんな誰かは、どこにもいない。
 助けてくれる“誰か”は自分でしかないという事を。

「逃げて叫んでどうするつもりだい⁉ 戦う力が無けりゃただの小娘と同じだよ! お前は伝説を越えるんだ!!」

 炎の向こうから、女の声が煽ってくる。
 余計なお世話だ。
 ただの小娘でいたかったのに、ここまでマツラを連れ出してきたのは他でもないこのダケ・コシの魔術師たちじゃないか。
 平凡な村娘でいる事を許さなかったのは、そっちなのに。

 熱に焼かれる指先で、握りしめていた糸の束をなぞる。
 媒介は燃えていない。
 頭の中には緻密な紋様が広がり、淡い光を帯びる。
 他でもない、今マツラが身につけているケープにマツラ自身が施した刺繍だ。
 幸運を祈る模様を下敷きにマツラがさらに手を加えた模様。
 この手から生み出される刺繍に魔法が宿るというのならば、今がその時。
 不確定なまじないを確定の魔法に変えるのだ。
 図案を描いたのは村娘のマツラではない。
 緑眼の魔術師マツラ・ワカの手によるものだ。

 村娘がまじないに願った幸運は最後まで彼女に訪れる事は無かった。
 だが今は違う。
 魔術師が施した魔法は、その時が訪れれば必ずや力になってくれる。
 これは、運ではない。
 針と糸を切り離した時に定めた、絶対の守護だ。


 とぐろを巻く炎の龍が叫ぶ。
 その中から、マツラの悲鳴が聞こえてきた。
 燃える龍の炎の朱を頬に受けて立つ女の表情は鋭く厳しい。
 小柄な身体に不釣り合いな大剣は、彼女の手の中でちろちろと炎を踊らせている。
 長らく使われる事の無かったその剣が、かつて彼女の代名詞とまで言われた一品だという事はケムリも良く知っていた。
 ちらりとも彼を見ない女に、自分の制止が何の効果も持たない事も。
 それでも我慢ならず、ケムリは声をあげる。

「もういいでしょう!!」

 マツラを殺すつもりですか、と続けたケムリに舌打ちをした女がやっと彼の方を振り向いた。

「この演習場で死ぬ事の方が難しいのはお前も知ってるだろう」
「それでも! いくら何でもやりすぎです! そんな姿に化けて、北の火龍剣まで持ち出して……ニチ様、貴女は一体マツラをどうしたいんですか!!」

 盛大に顔を顰めた女は、赤い瞳でケムリを睨む。

「化けてるとは失礼だね。これは人形さ」
「自分が一番ノリにノってた頃を模した人形なんて、余計に悪趣味だ」

 ケムリが知る過去のニチよりも更に若く、今のケムリよりもなお年下に見える女は、いつか見た若かりし頃のニチの肖像画と瓜二つで、尚且つ、はるか北国の火山より得たという剣は当時の彼女が好んで使っていたと聞き及んでいる。
 実際にニチが使っている所も何度か見た事があるが、目の前の女が持っているひと振りは、間違いなく火の五老ニチのかつての愛剣だった。

「うるさいねぇ。お前がまともな事を言うと本当に面白くないよ」
「ふざけないでください!! マツラは俺の弟子だ! 貴女の教え子じゃない!!」

 ため息をついたニチが肩を竦める。
 鷹揚な態度は今のニチと変わらないが、ケムリは拳を握りしめた。
 豪快な事も、大雑把な事も、悪い事ではない。
 時には強引に事を進める事も必要だ。
 だが、今ではない。
 ダケ・コシ本山、ひいては五老から直々にマツラの指導を命じられたのは、他でもないケムリなのだ。

「お前は過保護すぎるよ、ケムリ」

 ニチが首を振ると、長い黒髪がさらりと揺れて艶やかに炎の光を反射する。
 微かに残る今の彼女の面影に、ケムリは感情を押し殺して反論した。
 
「大切に育てると決めたのは五老のはずです。そのために、遠く隔絶されたカル・デイラにいる俺が選ばれた」
「大切に、大切に……ね。そうだよ。この子は大切に育てて一人前にしなきゃいけない。でもねぇ、ケムリ」

 言葉を切ったニチは、困ったように笑う。

「いざ目の前にすると駄目だ。待ってられない。どうしても手出ししたくなっちまう」

 燃える炎を背に、朱の光を受けながら答えた彼女のかつての失敗をケムリは知っていた。
 なのにニチは変わっていない。
 握りしめた拳が震えるのを押さえつけ、ケムリは目の前の女を睨んだ。

「それで……そのやり方でアサヒさんをダメにしたのは貴女自身だ。なのにまだ懲りてないんですか」

 マツラを絶対に五老に渡してはいけない。
 万が一にでも五老がマツラを引き取れば、彼女の芽は花咲く前に枯れてしまうかもしれない。
 非難のこもったケムリの言葉に、ニチは苦笑のまま彼を見た。

「……そうだねぇ……性分なのかもしれないねぇ。やっぱりワタシは、教育者には向いてな―――」

 向いていない。
 その言葉が終わる直前、微かな、けれど聞き逃す事のできない高い音と共に、ニチの手にあった火龍剣に大きな亀裂が入った。