不慣れでも、不向きでも

 砂埃が襲ってくる。
 舞い上がった微細な粒子に目を開ける事ができず、顔を庇うように腕をあげたマツラはきつく目を瞑った。
 雨粒よりも小さな土の粒は、空からの雨よりも鋭い痛みでもってマツラを打つ。
 息を吸うだけでも、口の中に砂が入ってくる。

「反撃はどうした! やられっぱなしでいるつもりか!?」

 挑発するケムリの声が、砂嵐の向こうから飛んできた。

 そんなつもりは、毛頭無い。

 戦えるようになりたいと修行を頼んだのは、他でもない自分だ。
 やると決めたのだから、受け身でいる訳にはいかない。

 意識して空気を肺に取り込むと、それだけで口に、鼻に、あたりで踊る土が侵入してくる。

 まずはこの土の雨を凌がなければ。
 まともに目も開けられないような有様では、とてもじゃないが魔法なんて使えやしない。
 ここで雨風に守られている場所は―――

 薄く目を開けて、マツラは勢い良く右手の方向に走り出した。
 奥歯の間で、噛んだ砂が不快な音をたてるが構ってなどいられない。
 おろした腕を必死に振り、一直線に大木の下の小屋を目指す。
 砂の雨の中、一部抉れた地面に足をとられながら、細めた目で捕らえた小さな小屋は、近付いてみれば余計にそのお粗末さが際立った。
 飛びついた扉の建て付けは案の定不安定だったが、この際そんな事はどうでもいい。
 今はまず、ケムリの起こす砂嵐から身を守るのが先だ。

 力一杯扉を閉めると、小屋が軋んだ。
 大きく息をついて、ばちばちと音を立てている天井を見上げる。

 飛び込んだはいいが、果たしてこの小屋はマツラが避難している間持ち堪えてくれるのだろうか。
 壁も天井も、薄い板を並べて出来ている、本当に簡易的な小屋だ。
 嵐でもくれば簡単に吹っ飛んでしまうだろう。
 現に今も、小屋はガタガタと不穏な音を立てながら打ちつける砂や土を受け止めている。

「逃げても無駄だ、マツラ!」

 薄すぎる壁の向こう、小屋の外からケムリの声が聞こえた。

 わかっている。
 この小屋はそう長く持たない。

 左右が対になるように造られているこの演習場で、それぞれの小屋は籠城のために造られている訳ではないはずだ。
 ここに立てこもろうと思うのならば、魔法であれ物理的にであれ、もっともっと強いもの頑丈なものにしなくてはならないだろう。
 そして、そんなやり方は今のマツラの修行にはふさわしくない。

 今欲しいのは時間だ。
 ほんの一時だけでいい。少しの間だけ、壁になって守ってくれれば。

「さあ、どうする?」

 ケムリの声が聞こえてくる。

 どうすればいい?

 頭の中で、問いかける。
 腰に置いている糸に手を伸ばしながら、はめ込まれているガラスが今にも落ちそうな窓にそろりと近付いた。
 覗き見た小屋の外の、今も吹き荒れる土砂の嵐の中に平然とケムリが立っている。

 いつもと変わらぬ師の姿に、ぞくりと鳥肌が立つ。
 異常の中に平然と立つ姿は、見た目も状況も全く違うのに昇位試験の日に現れたあの男を彷彿とさせた。
 紛らわせるように、糸を持った手に力を込めて壁にぴたりと背中を付ける。
 揺れる小屋の振動を感じながら、目だけは窓の外から離さない。

 乾いた砂嵐を背負って立つケムリの頭上、砂嵐の隙間にマツラはそれを見た。

 淡い水色の空に、透けるような薄衣の雲。

「そうだ……!」

 乾いた土埃を押さえるためには、水を撒けばいい。
 だが、雨は雲から降ってくるが、生憎天気は連日晴れときた。
 それでも空に雲があるのならば。
 浮いている雲を集めれば、雨を降らす事ができるのではないだろうか。

 マツラの背中で、もう限界だと言わんばかりに大きく小屋が震えた。
 はっとして室内を回し、唇を噛む。

 タイムリミットだ。

 これ以上ここにいて、小屋が崩れるのに巻き込まれる訳にはいかない。
 外にいる師の姿を確認して、媒介を握りしめる。
 これから行うべき事を頭の中で一度だけ復唱して、胸一杯に空気を吸うと、マツラは息を止めて外に飛び出した。

 ケムリが何か言ったような気がしたが、よく聞き取れない。
 全身を叩く砂粒に歯を食いしばって、対峙する師の背後、そのさらに向こうの空を見る。
 望む事はひとつだ。

 雲よ、来い。
 水を降らせろ。

 場内で自在に暴れる砂粒の向こうで、植えられている木々がざわざわと葉を揺らす。
 見る間に演習場の上に雲が生成され、マツラたちの上に陰が落ちる。
 日差しを失った演習場は、ひやりと温度を下げた。

「雲を……作ったのか?」

 魔法としては後手すぎる、しかし天気としては急速すぎる変化に、自分の頭上を一瞥したケムリが僅かに目を見開く。
 止まない土の雨は変わらずマツラを打ち、文字通り頭のてっぺんから足の先まで細かな泥を浴びたまま、マツラは声を張り上げた。

「いきますっ!!」

 耳の奥で小さく耳鳴りが響く。

 次の瞬間、演習場の真上に集められ、分厚い塊となった雲がどっと降下する。
 マツラが集めたのは雲だったはずだが、降り注いできたものは、濃すぎる程に濃い霧だった。
 視界は柔らかな白に塗りつぶされ、周囲三百六十度どこを見ても何の景色も見えない。
 代わりに目を凝らせばすぐそこに、ごく微細な雲の粒が見えそうだ。
 髪がその水分を吸い、だんだんと癖で暴れ出すに従って、マツラを襲っていた砂の嵐は弱まっていく。
 しゃがんで地面に触れてみると、乾燥していた土はしっとりと湿り気を帯びていた。

「よしっ」

 思わず呟くと、白い景色の奥からケムリの声が飛んでくる。

「視界を奪ったのに自分の居場所を教える馬鹿があるか!」

 早く次の行動に移りなさい、と叱咤するケムリに慌てて返事をして立ち上がる。

「つぎ……次は……」

 ケムリを拘束する。
 しかし、その前に彼の媒介を奪っておきたい。媒介が無ければ、魔術師もただの人だ。

 空を見れば、徐々に薄くなっていく白いもやの向こうに、くっきりと太陽の輪郭がある。
 真白な世界が終わる前に何とかしないと、マツラに勝ち目は無いだろう。

 声のした方向に狙いを定め、マツラは足音を立てないようにゆっくりと進む。
 しかし、明るく白い世界で何歩前に出てもケムリの影はおろか気配すらも見えない。

「どうして……」

 おかしい。

 そう呟いたところで、真後ろから声がした。

「自分の居場所を教えるな、ってさっき言ったばっかりだろう?」
「!」

 どうして!
 今の今まで、影もかたちも無かったのに!

 声に反射するように振り向きながら、媒介を持つ右手に力を込める。
 媒介を奪うなどと言っている暇は無い。
 ケムリの動きを封じなければ。

「動けないなら、勝ち目もあるはず!」

 しゅるりと解けた糸が、目の前の影に飛ぶ。
 うわ、とケムリが驚いた声をあげ、ちいさな音を立ててその手から竹刀が落ちたのが、薄い影の動きでわかった。

 辺りを包み込んでいた雲は急速に薄れ、ケムリの輪郭も徐々にはっきりとしてくる。
 困惑を張り付けた表情でこちらを見る師の姿を確認したマツラは、これでひと段落かと胸を撫で下ろし、疲れの滲む笑みを浮かべながら口を開いた。

「師匠、もう少し心の準備を―――」
「甘いね、マツラ」

 しかし力の抜けた声は、低く鋭い女の声に遮られた。
 動きを止めたマツラの背後から、声の主は語りかける。

「知り合いだから本気でやれないのかい? それとも、コイツが師匠だから?」

 視線を動かしただけでは相手の姿を視界に入れる事はできず、マツラは息を殺しておそるおそる首を回した。
 女の声が放つ重圧に、首の骨が軋む。

 視線を巡らせて最初に飛び込んできたのは、突きつけられている刃物の切っ先。
 研ぎ澄まされた冷たい光に、息が止まった。背筋が伸びて、体温が下がる。
 硬質な光を辿っていけば、その手に持つ剣の切っ先よりも鋭い瞳と目が合った。
 丸い輪郭の中で、赤茶色の瞳が攻撃的に煌めいている。

「知ってる奴だから本気出せないって言うんならねぇ」

 女は流れるように剣を振り上げた。
 その動きにあわせて、高いところで結ってある長い黒髪がさらりと流れる。

 癖のない髪、いいな。

 場違いにもそんな事を考えた次の瞬間に。

「ワタシが相手してやるよ!!」

 高らかな宣言と共に女の持つ剣が振り下ろされた。