乙女の憬れ
祖国の平穏を保ちたい。
オカリの言葉は、自分とそう年の変わらない女の子が掲げる目標としては壮大すぎるように感じられた。
そもそも、フィラシエルという国に何かが起こったとしてもマツラの生活は何の変化も無かっただろう。
マツラの生まれ育った田舎町では、国の事など物語の中と同じで、もっと重要な事がたくさんあった。
生活のために仕事をしていたマツラにとって、それは納期であり、納品する商品の数や作業の進み具合だった。
繰り返す毎日は、現状を保守するためのものだ。
明日が今日より悪くならないように。平穏無事に今日を終え、同じ明日を迎えられるように。
最低限、今を維持する。
だから、継続して受けていた仕事を切り、魔術師としての修業を始めるのは、途方もないほどの決意を要する事だった。
約束された明日と、積み重ねてきたものを置き去りにして家を出る事の、なんと恐ろしい事か。
生きる世界を変えるのは、決して輝かしく明るい未来だけを示唆するわけではない。
それと同じか、それ以上の恐怖と不安。そして、それらに勝る覚悟が必要だった。
オカリは、グランディスの平穏を保ちたいと言った。
彼女の宣言は、普通の女の子が語るには壮大すぎる言葉だ。
自分の手の届く範囲の事までしか見えないマツラには、彼女の言葉は夢物語にしか聞こえない。
当事者であるはずの魔王討伐すら、やっと実感してきたばかりの自分など、オカリから見れば頼りない事この上ないのではないだろうか。
「どうかしたのかい?」
休んだほうがいいと、ツツジとラクトに連れられて部屋に戻るオカリの後ろ姿を見送りながら、知らず溜息をいたマツラに、ケムリが問う。
「考え込むのは良くない癖だって、何度も言ったはずだけどね」
続いた言葉に、思わず肩から力が抜けた。
「そうですね」と頷いて「でも」と師を見上げる。
「オカリちゃんが私ならよかったのに、って」
思わずにはいられない。
彼女が新緑の眼を持つ魔術師だったならば、迷いなく魔王を倒すと立ち上がっただろう。
マツラのようにポンコツと言われる事も無かったに違いない。それどころか、きっとオカリは何でもそつなくこなすはずだ。
「私はツツジが危ないめにあって、やっと決めたけど……オカリちゃんならきっと、もっと早く決められはずだから」
自分の周りの人たちを、巻き込みたくないと思った。
それも、容赦なく巻き込んでしまった後になって。
気付くのが遅いと言ったリモの言葉は正論だ。
マツラがもっと早くに頷いてさえいれば、ツツジは水の五老から治療術を学ぼうとは思わなかったかもしれない。
「マツラ、訂正してもいいかな?」
黙ってマツラの話に耳を傾けていたケムリは、少し考えるようにして口を開いた。
「僕らは誰も巻き込まれたとは思っていないよ。気になるならツツジやラクトにも聞いてごらん。きっと答えは同じだから」
「でも……」
困り顔で見上げるマツラに最後まで言わせず、ケムリは笑う。
「それに、君は僕が弟子が困ったことになっているのに、無視するような人間に見えるかい?」
答えないマツラに、「だから気にする事ではない」と頷いてケムリは彼女を見下ろした。
「まあ、言ったところでやっぱり考えるのが君の性格なんだろうけどね」
師の言葉が有り難い。
何もできないマツラを丁寧に導いてくれるケムリ。失敗も成功も、彼はマツラの行う事を辛抱強く見守り結果を評価してくれた。
彼が自分の師匠でよかったと、改めて噛み締める。
「ありがとうございます」
ダケ・コシにはたくさんの魔術師たちがいる。マツラより出来のいい初級魔術師も大勢いることだろう。
彼らに比べても、そして比べずとも、マツラに出来る事はまだ少ない。失敗もまだ多いが、そのせいでケムリが彼らに笑われないような魔術師でありたいと思う。
自慢の師匠だから、彼に恥じない弟子でいたい。
「それとね、マツラ。ひとついい事を教えてあげるよ」
人差し指を立てたケムリが、オカリの出て行ったほうをちらりと見る。
「君から見たら、オカリ君はとてもすごい人に見えるかもしれないけどね。意外とそうでもないんだよ」
ケムリは諭すように続けた。
「大きい目標を掲げられる人間がすごい訳じゃない。言葉や、物の大きさとか、規模だけがものさしじゃないよ。自分の見てきたものや感じてきた事の積み重ねを信じなさい。誰も、君の決めた事を笑ったりばかにしたりはしないから」
大丈夫、と向けられた笑顔にマツラは二、三度頷く。
「確かに、同世代の子から見たらオカリ君は眩しくて仕方なく見えるかもしれないけどね」
お見通しだと言わんばかりに付け加えられた言葉に、オカリと自分を比べて卑屈になりかけていたマツラは恥ずかしくなった。
ケムリの言う通り、オカリは眩しい。
自信に満ちてきらきら輝いていて、自分の考えをしっかり持っている。華やかな笑顔や、強い意志と信念の滲む声も素晴らしく魅力的だ。
オカリと比べてしまうと、どんな女の子も霞んでしまう事だろう。
自分もこうなれればいいのに、と憧れるには十分すぎる要素をたくさん持っている。
憧れるな、というほうが無理な話だ。
それらも全部見透かしたうえで、ケムリはマツラに助言をくれたに違いない。
不思議なもので、そうとわかると余計に恥ずかしさが増し、一気に頬が熱くなる。
今の心理も把握されているのかもしれない、と思うと居ても立ってもいられず、マツラは視線を泳がせる。
やましい事は何も無く、悪い事だって何もしていないのに、猛烈に恥ずかしい。
誰かを羨んで憧れていたと、異性の、しかも師匠のケムリに言い当てられた事が、たまらなく恥ずかしかった。
大声を出して走りながら手足をばたつかせたい衝動に駆られたが、さらに取り返しのつかない事になるのは明白だ。
なんとか落ち着こうと、マツラは火照った顔を冷やすように手のひらを頬に当てた。