捨ててきた翼

 起きよう、とマツラがかけた声に、オカリは顔に乗せていた腕を除けた。
 マツラの予想に反して、赤い瞳に涙は無く、代わりに少しだけ疲労が滲んでいる。
 目が合うと、何か言わなければいけないような気がして、慌てて口を開く。

「地面は冷えるよ。まだ無理はしないほうがいいから。それに……汚れちゃう」

 少し考えて足した言葉に、オカリの表情がほんの少し緩んだように見えた。

「だから、起きよう?」

 ぎこちなく笑って、躊躇いつつ差し出した手をしばらく見つめたオカリは「そうね」と短く頷いた。

「ありがとう」

 言葉と共にマツラの手を取ったオカリを引き起こしながら、彼女の言葉を胸の中で反芻する。
 何が正しいのか、何が間違っていたのか知りたいと言ったオカリは、いったいどれだけの覚悟でもってダケ・コシへ来ることにしたのだろう。
 グランディスで生まれ育ち、故郷とは正反対と言ってもいいような価値観が常識の、この魔術師たちの総本山に。
 敵討ちという言葉を口にしたオカリは、ビカーに襲われても取り乱したりしなかった。
 それが彼女の覚悟の現れなのか、または単なる無謀なのか、もしかしたら諦めかもしれないが。
 少なくともマツラには、彼女が何かを諦めているようには到底見えず、かと言ってオカリが胸に秘めているものも、全く想像できなかった。

「あなたは……」

 紅梅の瞳が何か言いたげにマツラを見つめたが、言い淀んだオカリは「なんでもない」と首を振る。
 短い付き合いでもわかる“らしくない行為”に続きが気になったが、それを聞くことはできなかった。
 軽やかに立ち上がったオカリは深く息を吸ってからスコとビカーに視線を送り、それに気づいた一人と一頭も、無言でオカリの視線を受け止める。

「まだ、謝れない。けど、アナタには感謝するわ」

 ぶっきらぼうに放たれた言葉に、男は少し呆れたように息を吐き、唸るのをやめた獣は見定めるようにオカリを見た。

「そりゃあ有り難い事で。お前もせいぜい長生きしろよ?」
「余計なお世話ね。あたしは百まで生きるんだから」

 当然だと答えたオカリは相手にせず、スコは首を回してから相棒の首筋を叩いた。

「俺はこいつと厩舎に行くことにする。中庭なんかに長居したら、口うるさい誰かさんが飛んでくるからな」
「口うるさい……?」

 不思議そうに自分のの言葉を繰り返したツツジに、「そうだ」と頷いてスコは笑う。

「緊急事態ってんなら、あいつも本山に戻ってるはずだ。目ぇつけられたら面倒だ」

 面倒だと言いながら、スコの声にはどこか懐かしそうな響きが滲んでいた。
 身軽な動きでビカーの背に乗った彼は、挨拶もそこそこに冬空に飛び立つ。

「厩舎って言ってたわね……アレ、馬と同じ扱いなの?」

 僅かに顔を顰めたオカリが疑うように言ったが、マツラもツツジも「さあ」と首を傾げるばかりだった。

「馬が怖がると思うんだけど」
「気になるなら見に行くかい?」

 独り言のように言うオカリに、ケムリがいつもの調子で提案する。

「さっきの今で、ハイ行きますって言うとでも思って?」

 オカリは彼の言葉を一蹴すると、小さく首を傾げてみせる。

「それとも、アナタが見てきて、どうだったか教えてくれるの?」
「君が僕の弟子だったなら、自分で見ておいでって言っただろうなぁ」

 わはは、と笑ったケムリはオカリのほうに歩み寄り彼女を見下ろした。

「改めて、グランディスではうちのツツジがたいそう世話になったようだね。僕はケムリ。ツツジの師匠だ」
「あなたが……」

 恵まれた体躯の魔術師は、自分を見上げるオカリに陽気な笑みを向ける。

「君の事は、ツツジから少しだけ聞いているよ」
「それは、どうも」

 間合いを測るように会釈をして、オカリはツツジとマツラを見る。
 その視線を受けて、ツツジがすかさず口を挟んだ。

「オカリさん、こちらが僕たちの師匠です。だから警戒しなくても大丈夫ですよ」

 グランディスにはケムリよりももっと逞しい身体を持つ戦士や、恐ろしい顔の傭兵たちがごろごろいる。
 オカリがそういう男たちとも顔を合わせてきた事を、ツツジはこの場の誰よりも知っているはずだった。
 それでも彼女の緊張を汲み取ってか、さっきまでの殺伐とした空気を掻き消すためか、柔らかく笑った少年は、オカリと師の間を取り持つように続けた。

「師匠、オカリさんはさっきもお話したように、グランディスで何かと僕の面倒を見てくださって……」
「なかなか面白い人に出会ったようだねぇ。さっきから見ていて、どうなる事やらと思ったよ」

 そんな弟子の言葉を遮ったケムリは、気を遣う素振りも、心配する素振りも見せずに笑う。

「まあ何事も無くて良かった。ここで君に何かあったとしても、君の家族に訃報を知らせる人間なんていないからね!」

 快活に言ってのけた師の言葉に、マツラが口を半開きにした。
 ツツジは「縁起でもない事を言わないでください」と言い返すが、彼の言う事は確かに正しい。
 万が一、オカリに何かあっても、弔いこそすれその不幸は彼女の故郷には知らされる事は無いだろう。
 武術王の色彩を宿したグランディスの少女の行方は、皮肉にも彼の国の人々が敵だと宣言しつつある、フィラシエルの魔術師だけが知る事になる。

「逆に知らせないほうがいいわね」

 だが、腕を組んだオカリは事もなげに頷いた。
 信じ難い言葉に、マツラは驚いて彼女を見つめる。

「師匠さんがこの二人からどこまで聞いたのかは知らないけど」

 そう前置きをして、オカリはツツジとラクトを見た。
 紅梅の瞳に理知的な光を宿した横顔は、他人事のように語る。

「あたしは、グランディスでフリューゲルって呼ばれる自警団にいたわ。この通りの容姿でしょ? 武術王の再来とか言われてね」

 これでも街の人気者だったんだから。

 そう言ったオカリは面白そうに笑ったが、その笑顔はすぐに消える。

 グランディスの王都、ツキサに拠点を構えるフリューゲルの主な仕事は街の警備と各地に出没する魔獣の討伐。
 最近は魔獣の目撃情報が増えてきた事も相まって、積極的に魔獣狩りを行う彼らの働きは、魔獣という脅威に不安を覚える人々に大きく支持された。
 それをより大きく強いものにしたのが自分の存在だったとオカリは言う。

「武術王デオ・ヒノコはグランディスの民にとって特別な存在だから、伝説の王と同じ容姿を持つあたしは、民衆の注目と支持、団員募集や士気の向上、とにかくあらゆる面でフリューゲルの象徴だった」

 オカリがいる事で、入団希望者は後を絶たず、フリューゲルの自警団としての規模は一気に拡大した。
 民衆は自警団であるはずのフリューゲルがまるで王宮騎士団であるかのような錯覚を抱き、彼女が率いる団が魔獣を狩る事で、かの伝説の王が国を平定したように、平和が訪れると信じた。

「もしあたしが死んだとして、その事実は絶対にグランディスに伝えちゃいけないわ。そんな事したら、国民感情爆発よ?」

 グランディスでは魔術師が魔獣を使って国を混乱させようとしているという考えもあるほどだ。

「あたしがフィラシエルに来た事は誰も知らない。けど、あたしがフィラシエルで死んだって事が伝われば、魔術師が連れ去って殺したんだって事になり兼ねないからね」

 オカリの話は、まるで別世界の話のようだ。
 彼女は武術王の色を持つ人間として、マツラが思うよりもずっと多くのものを見てきたのだ。そしてツツジたちと共にフィラシエルに来た。
 堂々とした立ち居振る舞いや、物怖じしない態度。マツラが驚嘆した彼女の佇まいは、オカリが故郷で積み重ね、得てきた物に違いない。
 平和な田舎町で刺繍をしながら暮らしていたマツラとは、どこまでも違いすぎる。

「な? コイツ相当狂っとるやろ?」

 肩を竦めたラクトが溜息をついてケムリとマツラを見る。
 狂っていると言われて素直に頷くのもどうかと思うが、説明してもらわない限りマツラにはオカリの考えている事の半分も解りそうには無かった。

「因みにそのフリューゲルのボスが、フィラシエルは敵やって煽りよる。今はまだただの自警団っちゅう形ばってん、このままいけば王宮との繋がりも出てくるやろうな」

 その証に、オカリの名前はとうとう国王の耳にも入るようになり、無視できない存在になったらしい。

「俺らがツキサを出る時点で、オカリの国王謁見まで決まっとった」
「あたしがいなくなったから中止だろうけどね!」

 ざまあみろ、と笑うオカリをマツラは信じられないものを見る目で見ていた。
 地味だと言われるマツラとは、どこまでも違いすぎる。
 グランディスにいる限り、彼女は華やかな人生が約束されていたのではないか?
 きっと周囲に愛され、慕われていたはずだ。
 それなのにどうして彼女はここに来たのだろう。
 行先すら告げずに人に隠れて何かするよりも、大勢の人に囲まれて表舞台にいるほうが、ずっと似合うように見えるのに。

「それで、君が自分を必要としている人々や故郷を捨ててまでここに来たのは何故だい?」

 マツラの疑問を解決する質問は、ケムリの口から出された。
 先を促すケムリの笑顔に、オカリは唇を結んで相手を見上げる。
 知的な光を灯していた瞳が、きらりと光って、好戦的で強い視線がケムリに向く。

「そんなの、決まってるわ」

 躊躇いの無い、芯のある声が淀みなく答えた。

「お人形のままじゃいられない。あたしは、あいつの計画を潰してグランディスの平穏を保ちたいだけよ」