悩める男と王宮から来た女
師匠失格。
浮かんでくる言葉を振り払うようにケムリは中庭で筋トレに精を出していた。
冷たい冬の空気は服を超えて肌を刺すが、今はそれも気にならない。
グランディスから帰ってきたツツジをひと目見て、彼が以前よりも少し逞しい顔つきになっている事に気が付いた。
本来ケムリが見守るはずだったツツジの成長は、彼の知らぬところで進み、まだ頼りなさの目立った弟子は、離れていた短くも長い間にケムリが見た事の無いような決意の眼をするようになっていた。
水の五老に治療術を教えてもらいたい。その許しがほしい。
今朝、ツツジはそう言った。
紛れもない彼の成長の証だと自分に納得させるように胸の内で繰り返し、ケムリは弟子を送り出した。
カル・デイラを旅立ったツツジが、グランディスで何を見てきたのかは聞いていないが、これまで一度も口にした事の無かった「治療術を使えるようになりたい」という言葉は彼がグランディスで経験してきた事に深く関係があるに違いないのだ。
それは、彼と共にダケ・コシにやって来た武術王の色をもつ乙女に関係しているかもしれないし、ツツジ自身がこれから先の将来を考えた時に導き出したものかもしれない。
どちらにしろ、治療術などかじりもしていないケムリは到底弟子の要望に応えられるはずもなく、ツツジをスイのもとに向かわせた。
つくづく、自分は無能な師匠だと思う。
肝心な事は教えられず、かと言って二人の弟子たちを守る事すらできていない。
胸を張って二人に向かい合う事ができる師でありたいと思うのに、結局上からの言葉に従うしかないのだ。
これで師匠を名乗るとは、情けないにも程がある。
果たして、これから自分が師として二人に出来る事は何なのだろうか。
答えは見つからず、黙々と腕立て伏せを続けるケムリの視線の先に、黒い靴先が見えた。
「貴方がカル・デイラの魔術師ケムリね」
澄ました声が降ってきて視線を上げると、黒い衣服に身を包んだ若い女と目が合う。
「初めまして。わたくし、リモ・トローラと申しますわ。王宮の魔術師と言えばおわかりでしょう?」
見下ろす視線と、にこりともせずに告げた彼女の態度はとても友好的とは言い難く、ゆっくりと立ちあがったケムリは小柄な相手を見下ろした。
「もちろん存じていますよ。あなたは有名人だ」
王宮の魔術師リモ・トローラ。
その名のとおり王宮に常駐し、王宮内における魔術師の管理を任されている彼女は別の意味でもよく知られている。
「それで、王宮の魔術師ともあろう方が僕のような田舎者に何の用ですか?」
慎重に尋ねると、リモは口元に手をあてて小さく笑った。
「まあご謙遜なさって。火の五老の最後の弟子ケムリ・マリ。申し分のない実力の持ち主でありながら、カル・デイラなどというド田舎に居を構えた世捨て人。貴方のお名前も、程々には知られていてよ?」
「だとしても、王宮の魔術師殿には敵いません。それに僕はただの一般魔術師に過ぎない」
「緑眼を鍛える者として選ばれておきながら、本当にご謙遜なさるのね。わたくし、無駄な時間を過ごすためにわざわざ来た訳ではございませんの」
色の薄い茶色の瞳が睨むようにケムリを見上げる。棘の混ざった溜息を吐いたリモは腕を組んで苛立たしげに視線を巡らせた。
噂に聞く王宮の魔術師の、二十歳そこそこの見た目とはかけ離れた威圧感に知らずケムリの背筋が伸びる。
ニチの放つそれとはまた違う種類の重圧に唾を飲み込んだ。
「あなた、師から見て緑眼の娘はどうなんですか? ちゃんと使い物になりますの?」
疑いの眼差しと共に向けられた問い。
選ばれた者ゆえの自信と、それを裏付けるだけの実力を持つ女は、未熟さのほうが目立つケムリの弟子を信用していないようだった。
秘密裏に魔術師としての道に導かれ、ケムリ達や五老等限られた人間以外、外の誰にも知られる事なくダケ・コシ本山へやってきたマツラ・ワカ。
対魔王のためだけに魔術師になる事を決められた少女。
「最終兵器の調子を聞いておくのも、わたくしの仕事のひとつですから」
リモの反応は、無条件でマツラに期待を寄せる人々の何倍もましかもしれない。
だが、あまりに事務的な口調はケムリに反感の感情を抱かせる。
「……早すぎた。マツラはまだ自分の力の使い方も良く分かっていない。持っているものの大きさも。魔王が目覚めるのも、何もかもが早すぎたとしか」
「遅すぎた、の間違いではなくて?」
押し殺した声で答えたケムリに、リモは冷ややかに返す。
「彼女の存在は最初からわかっていましたわ。魔王復活の時が近い事も。わたくしに言わせれば、遅かった。緑眼の娘をもっと早くに迎えに行けば間に合ったかもしれない。でなければ、最初から五老が彼女を引き取っていれば良かったのだわ。そうすれば魔術師として一流の教育を受けさせることができたはずです。十六年前も、わたくしはそう申しましたのに」
「お言葉ですが、それでは駄目だと仰ったのは先代のフウ様だったはずだ」
「ええ、そうですわ。けれど結局間に合わなかったでしょう。本当に、先代はお優しい方でしたわ。幼い子供を親から引き離し、対魔王の手段として育てる事を良しとされなかった。……ですが、やはりその考えは間違っていたとしか思えませんわね」
言葉を切ったリモは、謳いあげるように続けた。
「緑眼の娘は自覚もなく未熟なまま。魔王復活の時を迎え、本体はひとりで対抗できるはずの娘はただオロオロしているだけ。これであのミウ・ナカサと同じ力を持っているだなんて、聞いて呆れますわ」
澄ました声は無感動に言い放つ。
「このわたくしが力添えをするというのに、覇気もなく、役にも立たない小娘の相手だなんて……先が思いやられますこと」
それはあんまりな言い方ではないか。
「リモさん、今の言葉は訂正して頂きたい」
拳に力を込め、まっすぐにリモを見る。
「マツラは彼女のできる精一杯でやっている。今まで休む事も知らずに駆けてきた子に、そんな言い方は無いだろう」
「まあ! 事実休む暇などありませんのよ!?」
大袈裟に目を見開くリモに、強く言い返したいのを堪えてケムリは目に力を込めた。
「必死に家族を助けてきた子だ。うちに来た時だって、自分は売り飛ばされたんだと思っていたくらいだ。そんな子に、魔王を倒せなんて、簡単に言えるはず無いだろう」
彼女は伝説の魔法使いの力を引き継いではいるが、まだ十六歳の女の子でしかないのだ。
田舎の町からやってきた、真面目な少女。
その瞳ゆえに、魔王と対峙することを決められた娘。
「馬鹿をおっしゃい」
その反対だ、と続けたリモは挑発するようにケムリを見る。
「貴方、わたくしが王宮で何をしているのか、まさかご存じない訳ではないわよね? フィラシエルの魔術師たちの中で、最も魔王について知っているのはこのわたくしです。だからこそ言います。魔王を倒せ、とね」
睨みあうケムリとリモ。
怒りの色の走る目でリモは高く言い放った。
「王宮にて閉架書庫の魔女と呼ばれる事の意味を、知らないとは言わせませんわ!」
王宮図書館の閉架書庫。
そのさらに奥に収蔵されている古文書の解読が、五老から任されたリモのもうひとつの仕事だった。
「この時のために、わたくしは王宮に留まっていたんです! 例え実りが来ずとも、書庫の主となる事を選んだのです!」
細い腕がケムリの襟元を掴み、言い聞かせるようにリモはケムリの目を見据える。
「冷たいと思われて結構。情けをかけている暇なんてありませんわ。貴方も先代も勘違いをしています。優しくするだけでは小娘は先になんて進めませんのよ?」
「それはあなたのやり方だ! 俺にはできない。師が弟子を突き放してどうするんだ!」
マツラを"そう"する事にしたのは、五老をはじめとする上層部の魔術師たちだ。もちろん、その中にはリモも含まれている。
彼らがマツラに戦う事を求めるなら、せめて自分はマツラを休ませてやりたい。
何もできない師匠だが、それくらいは出来るはずだ。
「本当に、甘い男ですわね」
服を掴んでいた手を離し、再び腕を組んだリモは呆れたように首を振る。
あなたが厳しすぎるんだ、と呟けば気位の高い王宮の魔術師は「余計なお世話ですわ」と顔を背けた。
ちょうどその視線の先に、ケムリを探してやって来たマツラとラクトがいた。