遅くはないと言い聞かす

 ケムリと話をしていた女性の、色の薄い瞳がマツラを捉えた。
 鋭い視線に、一瞬足が鈍ったマツラの横で、ラクトが小さく呟いた。

「リモさん……」

 彼はどうやらあの女性の事を知っているらしい。
 黒いジャケットと裾の長い黒いスカートに身を包んだ女性は、妙な圧迫感を放ちながらマツラとラクトがケムリのもとへ来るのを待っていた。

「おはようございます」

 彼女から感じる圧を紛らわせるように、思い切って声をあげれば、ケムリからはいつも通りの返事が返ってきた。
 師の隣では黒ずくめの女性が無言のまま、値踏みするようにマツラの全身を見たのが目の動きでわかった。

「……あなたがマツラ・ワカね」

 冷ややかな声は、昇位試験の会場で向けられた声を彷彿とさせた。
 彼女からからは、ここしばらくで嫌というほど浴びた、マツラの力を無条件に信じる人々のから伝わってきた熱気は微塵も感じない。
 じっとマツラの瞳を見据える女性は、試験会場にいた若い魔術師たちのようにマツラの力を疑っているのだ。

「わたくしは、王宮の魔術師リモ・トローラと申しますわ。五老の命により、あなたの魔王討伐に助力すべく、ここへ参りました」

 言葉だけは丁寧でありながらマツラを拒絶する意思の込められた声に、戸惑いながらリモを見る。

「は、はじめまして。よろしくおねがいします」
「随分と頼りないこと。あなた、本当に大丈夫ですの?」

 正面から向けられる棘は、マツラの胸を大きく抉った。
 懐疑の念ではない。
 リモの視線には、声には、もっと違う、マツラが今まで受けた事の無い鋭く刺さる感情が込められている。
 ちらりとケムリを見ると、彼も困ったようにリモを見ていたし、隣のラクトも緊張気味に唇を結んでいる。
 なぜ彼女が攻撃的な感情を向けてくるのか理由が全くわからない。彼ら二人ならそれも知っているのだろうかと思いながら、マツラは唾を飲みこんだ。

「大丈夫、って言えるようになるために、来たんです」

 終わらせると決めたのだ。

「魔王を倒して、はやく元の生活に戻るんです。師匠とツツジと三人で、カル・デイラに帰るんです。これ以上みんなが危ない目に遭うのは、いやです」

 握りしめた手に力を込めて、リモの視線に負けそうになるのを堪える。

「私が、やります。魔王を倒すために必要なのは私の力なんでしょう?」
「気付くのが少々遅いのではなくて?」

 力が必要だという説明はとっくに聞かされていたはずだ、という冷ややかな声に、マツラはたまらず声を大きくした。

「だとしても、これ以上ツツジたちにまで無理を押し付けないでください!」
「無理? 何の事でしょう。ツツジとはあなたの兄弟子でしたわね?」

 俯いたマツラに代わり、リモに説明したのはラクトだった。

「ツツジが、水の五老の指導ば受けた。スイ様の治療術伝授の方法、リモさんなら知っとるやろ?」

 ラクトの言葉に、初めて彼女の表情が変わった。ケムリも眉を寄せてラクトを見る。
 リモはラクトのほうに向き直ると、声を落として尋ねた。

「成功しましたの?」

 短い問いにさっきまでの棘は無い。鋭い視線は変わらないが、込められる感情が明らかに変わったのが見てとれる。

「成功した。無事に、ね」
「それは良かったわ。で、あなた方二人はその場に居合わせたのね?」

 ラクトの答えに、ケムリがほっとしたように胸を撫で下ろし、リモも一瞬だけ表情を和らげた。
 困ったものだ、と溜息をついたリモは三人を見回した。

「スイ様にはわたくしからお話をしておきますわ。今はスイ様の指導を受けた少年が無事だった事を喜んでおきましょう。それでは、また後ほど」

 靴音を響かせながら去っていく小柄な後ろ姿を、無言で見送る。
 彼女がいなくなってやっと、マツラは大きく息を吐き出した。

「なんなんですか、あの人……」

 放たれる妙な威圧感と、初めて会ったというのに容赦なく向けられる敵意にも似た感情。

「私、そんなにあの人に嫌われるような事しましたか?」

 どうして初対面の相手から、理由なく辛辣に当たられなければならないのか。
 恨めしくケムリとラクトと見れば、ケムリは困ったように肩をすくめ、ラクトは苦い顔で首を振った。

「僕も初めて会ったからね。まいったよ。気難しい人だとは聞いていたけど、思った以上だったなあ」
「リモさんは昔からああやったよ。今日は特別キツかった気もしたけど」
「それでもあんまりじゃない? 師匠たちよりずっと若いのに、すごく上から目線だし。王宮から来たって、すごい事なのかもしれないけど、年上の人に対してさっきの態度はどうかと思います」

 よほど癪にさわったのか、珍しく憤慨するマツラに、ケムリは「違うよ」とたしなめる。

「何が違うんですか? スイ様にも自分が話しておきます、って自分のほうが偉いみたいな言い方だったし……」
「うん、マツラ、でも君は大きな勘違いをしている。リモさんは魔聖なんだ」

 外見こそ僕らより若く見えるけど、彼女は本当はもっとずっと年上の女性なんだよ。
 続けられた説明に、マツラは動きを止めてまじまじとケムリを見上げた。

「魔聖……?」

 聞きなれない単語を繰り返すと、ケムリは頷いて続ける。

「そう、愛された者。精霊に愛され、その体の老いを手放した魔術師を魔聖と呼ぶんだ」

 リモは二十歳の頃、精霊に選ばれた。
 遅い老いを手に入れ、長い生を約束される魔聖は、故に時間のかかる仕事を成し遂げる事に向いている。
 当代唯一の魔聖リモ・トローラは、王宮図書館の閉架書庫に所蔵してある古書及び魔術書の解読を指示されていた。そして十年前、王宮魔術師に任命されたのだ。

「リモさんはああ見えてもう四十近い女性だ。僕らより年上だし、もちろん五老に進言できる立場でもある。彼女が言っていた事は、なんらおかしい事じゃない。そしてさっき言われたように、リモさんは魔王討伐に協力するために王宮からこちらへ戻ってきた訳だから……」
「嫌でも顔を合わせなくちゃいけない、って事ですね」

 次に会うときも、また棘のある声を向けられるのかと思うと気が滅入る。
 顔を曇らせるマツラに、元気を出せ、とラクトが肩を叩いた。

「リモさんは、あれでも優しい所もあるとよ。何より、王宮で膨大な本を解読してきた実績もある。性格はキツかけど、魔王ば相手にするなら、これ以上頼りになる人はおらんくらいやけん」
「頼りに……ね」

 何しろ魔王についてわかっている事は言い伝えの内容だけと言っても過言ではない。
 残されている文献もどこか曖昧だ。
 人に従う事の無い魔獣ですら頭を垂れ、世界に混沌をもたらす存在。
 緑の瞳をもち、最強の魔法使いと呼ばれていたミウ・ナカサが命をかけても封印するまでしか出来なかったと伝えられている。
 彼がどういう相手なのか。どこに封印されたのか。魔獣を従えるという、その力は何なのか。そして、ミウはどんな手法で彼と対峙したのか。
 そのどれにも、確たる答えは見つかっていない。
 マツラが倒さなければならない相手は、復活をとげた今でも何一つ詳細がわからないのだ。

「王宮図書館には、古い書物も多く収蔵されている。リモさんがその中から口伝以上の記述のある一冊を引き当てる事ができているのなら、マツラ、君の戦いは一気に有利になる可能性が高い」

 逆にリモがその一冊を引き当てていなかった時はどうなるのか。
 頭をよぎった言葉は、恐ろしくて口にできなかった。
 代わりに考える。
 魔王と戦うなんて正気の沙汰じゃない。普通の相手じゃない事など言われるまでもない。
 普通じゃないものを相手にする。そのために出来る事は何だろう。
 マツラは、その答えを知っていた。
 受け入れる事ができなかっただけで、とっくに知っていた。

 自分が普通じゃなくなればいい。
 マツラ自身が、今よりももっと異常な存在になってしまえばいい。そういう力を手に入れればいい。
 その入口に、ずっと前から立っていたのだ。
 手に余る力を自在に扱えさえずれば。更にもっと違う何かを得る事ができるならば、きっと今よりも普通じゃなくなる。

「……師匠、修業をお願いします。荒療治でも構いません。戦わなきゃいけないのは、私です」

 故郷の村でも、普通の家庭を願った。友人たちと変わらない、普通の生活を望んだ。
 カル・デイラでの修行でも、早く普通の魔術師のように術を使えるようになりたいと思った。
 ダケ・コシに来て魔王討伐を命令されて、心底思った。

 私は普通でありたい。

 けれど今、人生で初めて思う。
 普通じゃいられない。異常にならなくてはいけない。
 終わらせる。
 そのために、異常になるのだ。

「師匠、お願いします」

 見上げたケムリの黒い目が、困惑に揺れた。

「マツラ、きみ……」

 ケムリが口を開いた瞬間、彼の声をかき消す咆哮が響いて地面に影が落ちた。
 空から降ってきた獣の声に、視線は自然と上に向く。
 晴れた冬空を一頭の獣が駆けていた。
 弱い日差しを反射する金色の毛並みに目を細めたマツラのそばに着地しようとする、獅子に似た金色の獣。
 騎乗しているのは、頬に大きな傷のある男だった。
 マツラに向かって左腕を上けだ男がにやりと笑う。

「久しぶりだな、嬢ちゃん!」

 よく通る声に呼ばれ、マツラは口を半開きにしたまま、目の前に降りてきた金色の獣と男を交互に見つめた。