平和な腹ごしらえ
食事を始めたオカリは、それまでが嘘のようにもくもくと口に物を運び、ツツジが取ってきた朝食は瞬く間にオカリの胃に消えていった。
病み上がりだとは信じがたい食欲に、マツラはオカリを凝視する。
「そんなに一気に食べて、大丈夫?」
思わず尋ねると、オカリは大きく頷いた。
「昨日、まともなゴハンにありつけなかったからね」
「当然ですよ! 病み上がりの状態で、どれだけがっつくつもりなんですか。まずはお腹に優しいものからにしないと」
パンを手に取っていたツツジは手を止めるが、オカリは煩いと言わんばかりにツツジを睨んで頬を膨らませる。
「ラクトはダケ・コシに着いたら美味しいもの食べさせてくれるって言ったじゃない」
忘れたなんて言わせない、と続けたオカリは温野菜の盛られた皿にフォークを伸ばす。
「今日会ったら絶対に何か奢らせてやるんだから。それにね、食べなきゃだめよ。力出ないもの。力が出なきゃ、何の訓練も身が入らないし」
言う傍から、盛られた野菜は消えていく。気持ちのいい食べっぷりは逆に感心したくなる程だ。
ツツジは彼女の言葉に軽く目を吊り上げた。
「オカリさん、何日かはゆっくりしてなきゃダメですって」
「ばか言わないでよ」
たしなめるツツジに、オカリは切り捨てるように言い返した。
「じゅうぶんゆっくりしたわ。ずっとまともに動けなかったから、身体がなまりきってるのよ。このままじゃカンまで鈍っちゃう」
二人の言葉にマツラは首を傾げる。
一体、オカリは何の訓練をしているのだろう。
「訓練って……?」
マツラの問いに、オカリが頷いて答えた。
「ありがたい事に、あたしも魔王討伐とやらに誘ってもらったの」
まるで、「お茶会に誘われたのよ」と言うような調子で告げられたオカリのせりふに、マツラは耳を疑った。
誰から誘われたのか、聞き返すまでもない。
五老からに決まっている。
彼らは彼女まで巻き込むつもりなのか?
それどころか、オカリ本人も乗り気のようだ。
赤っぽい瞳が親しげに細められる。
澄んだ声が力強く向けられた。
「昨日はみっともないとこ見せたけど、アタシ、これでも結構腕が立つのよ? だから、よろしくね」
よろしく。
その意味するところを察して、マツラは気が遠くなりそうだった。
オカリからは、まったく迷いが感じられない。
それどころか、彼女の言葉からはマツラ自身の迷いや不安さえも吹き飛ばすような力を感じる。
頭の中は、眩暈を感じたようにぼやけていて、何とか手を振りながら言葉を絞り出す。
「みっともないだなんて、そんな!」
そう答えるのが精いっぱいで、誤魔化すように暖かいお茶を口に入れた。
オカリ・ユフという人がよくわからない。
彼女は驚くべき速さでマツラの中にやって来た。
差し出された手や、向けられる笑顔に全く悪意は感じられない。むしろ、純粋な好意が向けられているように感じる。
確かにマツラも彼女に会いたいとは思ったが、相手が最初からこんなに押してくるとは思わなかった。
どうして彼女は、初めて会う自分にそこまでの好意を向けているのだろう?
なぜ、魔王討伐を受け入れているのだろう。
そして、惹きつけられる強い力はどこから溢れてきているのか。
考えるほどに疑問は湧き、ちびちびとお茶を飲んでいると不意にオカリから話を振られた。
「ツツジがにやにやしていた」と言い張るオカリに、改めて兄弟子を見るが、もうにやにやはすっかり消えている。
代わりに少し慌てているツツジの表情の中に、マツラは明るい感情を見つけて指摘する。
「……なんかいい事でもあったの?」
どこか嬉しそうな表情にそう尋ねると、さらに慌てたように「気のせい」という言葉を繰り返しながらツツジは口いっぱいにパンを押し込んだ。
「ちょ、そんなにいっぱい……!」
止めようとしたところでもう遅く、ちょうどそのタイミングで、ひとりの魔術師がマツラたちのテーブルに近づいてきた。
「ツツジ・ナハ」
名前を呼ばれたツツジに続いて、マツラとオカリも彼のほうに視線を向ける。
三人を見回した魔術師は、頬の輪郭がすっかり丸くなっているツツジに数秒顔を逸らしたが、また何事も無かったかのようにツツジのほうを向く。
何をしているんだと言われたほうがずっと楽だ、とマツラは顔を強張らせながら、相手の様子を伺った。
「食事が終わったらスイ様の部屋へ行ってください」
平静を装った魔術師は、ツツジの頬がパンにより膨らんでいる事には触れず、事務的にそう告げると、肩を震わせながら食堂から出て行った。
赤い顔で必死に胸を叩きながらパンを飲み下そうとしているツツジの背中を、オカリはこれでもかと叩いている。
「変な食べ方するから詰まらせるのよ」
「ツツジ、大丈夫?」
水の入ったコップを差し出せば、ツツジは勢いよく中身を飲み干した。
どうやら無事に飲み込めたらしい。
しかし、なぜツツジに呼び出しがかかったのだろう。
「直接スイ様に呼ばれるって、何だろうね」
嫌な予感がする。
その事は言わず、ぼんやりとさっきの使いの魔術師が出て行った扉を眺めていると、改まった声でツツジに呼ばれた。
一気に意識を戻されたマツラをみつめ、ツツジは真剣な面持ちで口を開く。
「僕、マツラさんたちと一緒に行くって決めたんです。だから、スイ様から治療術の指南を受けようと思います」
目を見開いたマツラは、ツツジの顔を見つめたまま目を逸らす事ができなかった。
強い決意に満ちた眼は、止めるケムリたちを説得して彼がグランディスに旅立った時とよく似ている。
この一日の間に、ツツジは決めてしまったのだ。
皆、マツラを置いて決めてしまう。行ってしまう。
ツツジのこんな選択を、マツラは望んでなどいなかったのに。
マツラだけでなく、周囲人たちまで巻き込まれていく。
「無理、してないよね?」
恐る恐る尋ねると、優しい兄弟子は力強く頷いた。
「もう、決めましたから」
穏やかなようで、一度決めたら頑固な兄弟子だ。
ツツジは賢い。そんな彼が簡単にこれを受け入れたはずがない。
決意の声に、彼の考えを変える事はできないとすぐにわかった。
あるいは師匠のケムリならばどうにかできるのだろうか?
「師匠には、この事は……」
「まだです」
スイの所へ行く前に報告に行こうと思っていた、というツツジに、マツラはちらりと時計を見た。
アサヒから「ケムリは毎朝中庭で筋トレに励んでいる」と聞いていた事を思い出して伝える。
「じゃあ、僕は先に失礼しますね。……オカリさん、ひとりでも大丈夫ですか?」
ツツジは心配そうにオカリを見るが、当のオカリは気にするなと手を振る。
「心配しすぎよ。あんたは自分の用事済ませてきなさい」
「私もいるから、安心して」
マツラの言葉に、ツツジは一瞬迷ったような素振りを見せたが「お願いします」と頷くと食堂を出て行く。
小柄な少年の背中は、確かに以前よりも頼もしく見えたが、どうしても嫌な予感だけは消えなかった。
「ツツジが心配?」
やっと満足したらしいオカリが、口元を拭いながらマツラを見る。
からかうような表情に、マツラは少し考えてから小さく笑った。
「心配っていうよりは……」
「あの子なら大丈夫よ。ツツジは、ああ見えて結構やる奴だから」
にやりと笑ったオカリはカップの中のお茶を飲み干して、鋭い眼でぐるりと辺りを見回す。
「ちょっと移動する?」
周りの視線は確かに二人に集中していて、食堂の居心地は決していいものではない。
少し煩いわね、と言う彼女の申し出は、マツラにも有り難いものだった。
ただ、困った事に自由な行動を許されていなかったマツラは、移動するにしてもちょうどいい場所が思い浮かばない。
ひとまず食堂を出る事にした二人は、城内を散策する事にした。