望んだ言の葉

 それにしても広い建物だ、とオカリは窓から外を見た。

「そうだね。なにしろ、魔術師の総本山っていうくらいだから」

 答えるマツラもつられるようにして外に目をやる。
 ダケ・コシ本山、五老の城はフィラシエル国内の魔術師たちに関する一切を取り仕切る場所だ。
 五人の老魔術師それぞれの居室や、来賓を迎えるための部屋や広間、大小いくつかの講堂を備え、働いている魔術師たちのための食堂も備えてある。

「私も、あんまり詳しくはないんだけど」

 窓の外、街に面した建物を示しながら、マツラは師の言葉を思い出し、説明した。
 五老の居室等、立ち入りに許可が必要な一部の区画を除き、五老の城は基本的に解放されている。
 門をくぐって最初に目につくのが、依頼受付のための建物だ。
 ダケ・コシでは、魔術師への仕事の依頼について、その受付から執行まで形式化されており、各地から訪ねてくる依頼人は、その内容により専用の窓口や受け付けをする事になる。
 五老の城において、もっとも人の出入りの多い場所だ。
 昇位試験の季節には試験用の受付窓口も用意されて、マツラもそこで受付を済ませて試験会場である講堂へ進んだ。

「流石に外までは行けないね。また騒ぎになっちゃう」

 苦笑すると、オカリはわざとらしく息を吐く。

「面倒ね。そんなもん気にしなけりゃいいのに」
「そうできたらいいけど……難しいかな。ごめんね」

 解放された区画へ行くことは止められている。
 オカリの言うように、気にせず出ていく事が出来ればどんなにいいだろう。
 けれど、あの夜の光景と耳の奥まで響く喝采の声が忘れられない。言いつけを破り城の外に出た結果、同じような事になってしまったらと考えると、マツラは恐ろしくてたまらなかった。
 行動を許されたこの場所でも、好奇の視線は刺さって来るのに、大勢の人がいる場所に行く事など、今は考えられそうにもない。

「マツラが謝る必要なんてないわ。街の様子も気になるけど、実は外のほうには出ないように言われてるの。いくらアタシでも、昨日の今日で約束を破るのは気が引けるわ」

 気にするな、と笑ったオカリは大きく伸びをする。

「それに久々に解放された気分。こんなに身体が軽くて頭まですっきりしてるのなんて、いつぶりだろう。ねえマツラ、庭に出る事はできるかしら?」

 外の空気が吸いたい、と言う彼女に中庭なら大丈夫だろうとマツラは頷く。
 昨日の様子を知っているだけに連れ回すのは少し心配だが、動きたくて仕方がないという表情をしているオカリに部屋へ戻れと言う事は忍びなく、ゆっくりと歩きながら、いくつかある中庭のうち、アサヒに連れて行ってもらった事のある、奥まった場所の小さな庭園を目指した。
 途中、誰かとすれ違う度に視線を落とすマツラに対し、オカリは正面を見据えるように顔をあげている。
 端正な顔は、すれ違いざまに不躾な視線を寄越してくる相手に「言いたいことがあるなら言ってみろ」と、表情で告げていた。

 見ず知らずの異国に来て、自由を制限されているにも関わらずオカリは信じられない程、堂々としている。
 昨日五老の前に立った時も、そして今も。
 紅梅の瞳は意思の強さを伺わせる光を湛えて、物怖じする事無く周囲を見回していた。
 何もかもがマツラとは違う。
 彼女のように自信に満ちた態度をとることができたなら、どんなに良かっただろう。
 思わず漏れた溜息に、また悲しくなった。最近は癖のようにすぐ溜息をついてしまう。

「ねえ、マツラ」

 呼びかけは、他愛ない世間話が始まるときのトーンだった。

「あなた、今の状況は本意じゃないんでしょう?」

 今夜の食事、何にしましょうか。
 続いたのがそんな言葉でも、全く違和感は無かっただろう。
 オカリはさしてどうでもいい話題を振るような口ぶりでマツラに質問を投げかけた。それも、マツラが最も目を逸らしたいと考えている事を。

 マツラに合わせるようにして足を止めたオカリは、静かにマツラの答えを待っている。
 開きかけた唇が震える。
 答えるべき言葉と答えたい言葉がせめぎあい、喉に引っかかって息が苦しい。
 返事をしなければ。
 無言が一番良くない。無言は肯定と同じだ。

「わたし、は……」

 声が微かに震えている。胸が苦しくて、手に力が入ってしまう。
 喉で止まっている言葉が苦しくて、どうにかなりそうだった。続きを答えなければと思う程、余計に苦しくなってくる。
 答えを絞り出そうと視線をあげると、正面からオカリと目が合った。
 心の底を見透かすような瞳に、とっさにきつく目を閉じる。
 言わなくても、オカリは目を見ただけでマツラが口にする事を躊躇っている答えを見つけてしまうかもしれない。そして嘘をつけば、彼女はきっとわかる。本当の事を言わなければ、納得してくれない。

「私は、ね……」
「―――うん。大丈夫。今、誰もいないから」

 期待もせず、責めもせず、急かしもしない。
 ゆっくりと答えたオカリは、廊下の人の気配まで把握しているようだった。
 優しい声に背中を押され、そっとオカリを見る。
「問題ない」と言いたげな微笑みは、マツラの喉に止まっていた言葉をそっと引っ張り出した。

「理解は、してる。……でも、納得は」

 まだ、できていない。

 消え入りそうに告げた言葉に、オカリは柔らかな声で「そうね」と頷いた。
 オカリが次に続ける言葉を聞くのが怖くて俯く。靴のつま先すら、見る事が怖かった。
 理解する事と納得する事は、全くの別物だ。
 自分の選択を受け入れる事すらできずに、事態はきっといい方向に変わると信じるしかない。結局マツラの心は何も変わっていなかった。
 やはり言わないほうが良かった。
 無理だ、出来ないと思っていても、納得できなくても、引き受けてしまったのは自分なのだから。
 オカリに言ったところで、彼女も今さらと呆れるだけだろう。

「……ごめん、オカリちゃん。今の忘れて」

 息を止めて笑顔をつくる。
 けれどオカリは、マツラの予想に反してやんわりと首を左右振ってそろりと歩き出した。

「あたしはね、理解も納得もできない事はやらない主義なの。どっちかが欠ければ、絶対にいや。だから、マツラは偉い」

 つられて歩き出したマツラに、オカリはにこりと笑みを向ける。

「別に嫌でもいいのよ。でも、マツラはそれでも魔王を倒しに行くんでしょう? ―――その決断は、すごく勇気が必要な事よ。だから、マツラはすごい」
「ちが……そうじゃない……!」

 本当なら、オカリのようにまっすぐな眼で「やります」と言えるのが一番いいに決まっている。
 なのに、オカリは「嫌でもいい」と言う。
 嫌なままでは、やり遂げる決意が無ければ、少しでも迷いがあれば、失敗に繋がるかもしれないのに。
 躊躇いながら言うマツラに、オカリは「ばかねぇ」と快活に笑った。

「失敗しないために、あたしたちがいるんじゃなくて?」

 気取った口調でウインクをした彼女に、マツラは息を呑んで足を止める。
 ああ、私はいつも立ち止まってばかりだ。
 胸の奥で呆れている自分がいる。
 けれど、それすらもかき消してしまう程、オカリの言葉はすとんと落ちてきて、言葉の波紋は広がってゆく。
 胸元で握りしめた右手が微かに震えた。

「だから大丈夫よ」

 付け加えられた一言に、救われたような気がした。
 言葉の代わりに、マツラは何度も頷く。
 短い言葉は驚くほど暖かく胸に沁みわたって、それがとても苦しい。
 五老は当然の事のように魔王討伐を言い渡し、誰もが不安を感じていた。
 マツラも、そして同じく魔王討伐隊に選ばれたケムリやツツジやラクトも。
 緑眼を持つあなたなら出来る、という言葉はマツラにとって何の励ましにもならなかった。それはマツラの実力に伴うものではない。
 にも関わらず、これからマツラが為さねばならない事に対して、人々は口を揃えて言うのだ。

 あなたなら、大丈夫。

 私に一体何が出来るだろう、出来るはずがないと、そんな不安は聞いてはもらえない。
 彼らにとって、マツラなら"できる"のが当然だから。
 けれどオカリは「自分たちがいるから大丈夫」だと言った。
 師匠のケムリも、「もう決めた」と告げたツツジも口にしなかった言葉を、オカリは何でもない事のように言ってのけたのだ。

 自信に満ちた彼女の言葉には、他者を勇気づける力がある。
 それは、オカリ自身がそれだけの経験をしてきたからなのかもしれない。
 マツラはまだ彼女の事をよく知らない。
 昨日この国に来たばかりのオカリの言った事を「何も知らないくせに」と切り捨てる事は簡単だ。
 けれど彼女は武術王の色彩を受け継ぎ、その化身として動く事を受け入れてここにいる。
 オカリもまた当事者であることに変わりなく、昔話の英雄と同一視される事に一朝一夕で慣れる事ができるとは、到底思えない。
 祖国では敵国と言われているフィラシエルへやって来た彼女が、故郷で何をしていたのかは知らない。マツラは推測するしかないが、彼女はその頃からすでに武術王デオ・ヒノコの化身として振る舞わなければいけなかったのではないだろうか。
 それこそ、マツラが想像できないほど、長い間。
 仮に推測が当たっているのだとしたら、それはきっと孤独と隣り合わせだ。
 マツラがダケ・コシに来てそうであったように。
 だからオカリは言えるのだ。
 私がいるから大丈夫、と。

 ありがとう、と紡いだ声は少しだけ震えていた。
 簡単な、けれど周囲の人たちにしてみればひどく難しい言葉をくれた友人は、マツラの言葉に不思議そうな顔をしたあと、にやりと笑って右手を差し出した。

「じゃあマツラ、あたしと一緒に行こうじゃない。案外、あなたが思ってるほど悪くないかもよ?」

 きらりと光った紅梅の瞳に、ゆっくりと顔をあげてぎこちなく笑みを返す。
 ひとつ息を吸って一歩進み出、マツラは差し出されたオカリの手を握り返した。
 それは、彼女がかの国で戦ってきた証だと言わんばかりの、硬い皮に包まれた、力強い手だった。