初めて交わす挨拶は

 いつも通りに目覚め、身だしなみを整える。
 この前までは、その後部屋に朝食が運ばれてきていた。
 そして昨日までは、アサヒと共に食堂で食事を摂っていた。
 今日からマツラは一人で食堂に行き、食事をする事ができる。

 緊張した面持ちで扉に手を触れる。
 いつかのような強烈な刺激はなく、力を込めれば小さな音を立てて開く。
 本当に結界は解かれたのだ、と唾を飲み込んで、マツラは廊下へ踏み出した。
 食堂までの道順は覚えている。
 しかし、マツラが歩く前に今までのようにアサヒの姿は無く、たまにすれ違う魔術師たちの視線は、覚悟した通り遠慮なしにマツラを見る。
 まだ朝だというのに、食堂でテーブルに付くまでに言いようのない疲れを感じて、マツラはため息をつきながらオレンジジュースに口をつけた。
 向けられる視線に慣れない限り、ここで生活するのは困難だ。
 憂鬱な思いで朝食を口に運んでいると、見慣れた姿が食堂へやってきた。

 目が合ったツツジはマツラがよく知る穏やかな笑みを向けてくれる。
 ほっとして手を振ると、答えるようにツツジはマツラのテーブルに向かって来た。
 そして人目を引く、不揃いな淡い金髪を垂らした娘がツツジに続く。
 昨日の様子が嘘のように、力強く歩いてくるオカリの姿に、マツラは目が離せない。
 ツツジの「おはようございます」にぼんやりと「おはよう」と返した。

「空いてますか?」

 空席を見ながらツツジに言われても、マツラはどこかぼんやしたまま頷く。

「あぁ、うん、どうぞどうぞ。師匠がいなくて、私もちょうど一人だったから……相席は、大歓迎だよ」

 マツラの答えに、ツツジの半歩後ろのオカリがにこりと微笑んだ。
 思わずツツジに視線を移し、そのまま無言という訳にもいかずに、なんとか言葉を続ける。

「二人とも体調はもういいの? 昨日は本当に疲労困憊って感じだったけど……」

 答えてくれるかと思っていたツツジの代わりに、鮮明な声で答えたのはオカリだった。

「おかげ様で、もうすっかり。それよりも……」

テーブルを回ってくる彼女は、とろけるような笑みを向けてくる。
 座っているマツラに、オカリはずいと手を差し出した。

「はじめまして。オカリ・ユフよ」

 その声が、笑みが、オカリの周囲の空気まで、全てが淡く煌めいている。
 マツラには、そう見えた。
 同じ場所にいるだけで、胸が高鳴ってどきどきする。まるで、そういう魔法にかけられたように。

 顔が熱い。
 反射的に立ち上がったが、どうする事もできず、マツラはただ、勢いよく頭をさげた。

「こちらこそ、はじめまして! マツラです!!」

 しかし数秒の沈黙に、一気に不安が襲ってくる。
 何か変な事を言っただろうか?
 一瞬のうちに様々な考えが頭の中を駆け抜け、余計に顔に血がのぼる。
 沈黙を破るように、頭の上から降ってきたオカリの笑い声に、やっとマツラは顔を上げた。

「別に捕って喰おうって訳じゃないんだから、緊張しなくていいんだけど?」

 いたずらっぽく笑う彼女の、なんて眩しい事だろう。
 堪らず俯いたマツラは、助けを求めようとツツジに視線を送った。

「こんな美人に正面から見られたら、誰だって緊張する……と、思うんですが……?」

 自分の言葉にだんだん自信が持てず、声はだんだん小さくなっていく。
 事実、ツツジは平然とオカリの隣に立っている。
 こんなにドキドキしている自分のほうがおかしいのかもしれない。

「ツツジは、ちがうの……?」
「そうなの?」

 マツラの言葉に、オカリは不思議そうにツツジを見た。
 その表情ひとつとっても絵になる。
 まるで子供の頃夢見たお姫様が、目の前に飛び出してきたようだ。

 ツツジは二人の視線を受けて動きを止めると、苦笑しながら顔の前で手を振った。

「僕はオカリさんが顔に似合わない性格だと知っていますから」

 彼の言葉の意味を測りかねていたマツラは、ふと昨日のオカリの様子を思い出す。
 きっと彼女は、マツラが思うよりもずっと気が強く弱みを見せないのだろう。
 でなければ、あのボロボロの状態でスイに喧嘩を売ったりしない。
 しかしオカリのほうは納得できないようだった。

「アタシ、これでも割と素直に育ってると思ってるんだけど?」
「ほら、そういう所ですよ」

 間髪入れずに呆れた声で抗議するツツジに、マツラは驚きながら二人のやり取りを見守る。
 ツツジは初めて会ったときから面倒見が良くて頼れる兄弟子だった。
 確かに気の弱いところもあるが、優しい彼の良い所でもある。

 ツツジが派遣されていたグランディスは、腕に自信のある荒くれ共が集まると名高い国だ。
 心優しいツツジが、そんな国でうまくやっていけるのかケムリ達と心配していたのだが、どうやら杞憂に終わったらしい。
 グランディスでも、彼は彼なりのやり方でうまくやっていたに違いない。
 そうでなければ、こうやってオカリと冗談のような事を言い合えるはずがないのだから。
 堂々としているようで、どこかおどけたオカリの態度と、ツツジの一歩引いた、けれど呆れた口調は、二人の関係をよく表しているように見える。
 賑やかな会話に嬉しくなって、マツラはぽんと手を合わせた。

「ツツジ、グランディスでもおもり役だったのね」

 修行の地ダケ・コシで、ツツジは兄弟子として色々とマツラの手助けをしてくれた。
 きっと、グランディスでもツツジはオカリの助けになっていたのだろう。
 だが、オカリは逆だと言い張り、ツツジはもう好きにしろと笑う。
 オカリは至極真面目に。ツツジはやはり呆れたように。
 どちらの言い分が真実味であれ、二人の間に確かな信頼がある事だけは解る。
 それは、ケムリやマツラとツツジの間にある関係とは少し違うタイプの物のようだった。

 落ち着いたところで料理を取りに行くと告げたツツジに、オカリが自分も行くと言い張るのを二人ががりで止め、言い聞かせるようにして椅子に座らせた。
 病み上がりな事もあるが、彼女はあまりに目立ちすぎる。
 マツラよりよっぽど人目を引くのだ。
 今はまだ、おとなしくしていた方がいいだろうと心配するマツラに、不服そうなオカリは条件を出してきた。

「その呼び方、やめて貰いたいの」

 にこりと微笑んだオカリは、小さく首を傾げる。

「同い年だっていうし、気ぃ使わないでちょうだい?」

 軽く上目遣いで自分をを見る明るい色の瞳に、くらくらしそうだった。

 これは、ずるい。

 マツラが会った事のある女の子の中で、オカリは群を抜いて整った顔をしている。
 街で一番の器量良しと言われた娘よりも、立派な服を持った地主や町長の娘よりも、誰よりも。
 そして彼女は、自分の魅力を熟知している。
 同性のマツラでもドキドキしてしまうほど、自分の魅せ方を知っているのだ。

 落ち着いていたはずの頬の熱が再びあがるのを感じながら、マツラは必死に首を縦に振り、もといた席に座る。
 オカリは楽しそうに笑っているが、赤よりも柔らかい紅梅色の瞳に見られていると思うと、落ち着かない。

「ねえ、マツラ」

 食事を取りに行くツツジを見送って、オカリが僅かにマツラのほうに身を乗り出した。
 どきりとして彼女を見ると、まっすぐに自分を見る赤い目とまともにぶつかる。
 他者を魅了する瞳にふざけた色は無く、さっきまでとは少し違う、柔らかな表情のオカリはテーブルの上で指を組んだ。

「あたしね、あなたに会いたかった」

 秘密を打ち明けるように、そっと口に出された言葉は、沁みるように辺りの微かなざわめきにすら溶けてしまう。
 無言で目を見開いたマツラに、オカリは「迷惑だったらごめんね」と続けた。
 ついさっきまでツツジと話していた時とは違う、ほんの少し遠慮したような声に、マツラはとっさに首を横に振る。
 会いたいと思ったのは、マツラも同じだった。

「私も、会いたいって思ったの。だから、その……」

 迷惑なんかじゃない。

 続けたマツラの言葉に、花が開くようにオカリの顔がほころぶ。
 良かった、と呟かれた言葉に込められた安堵の響きは深い。
 彼女のような人が、なぜこんな事を気にする必要があるのだろう、とマツラはオカリの反応が微妙に心に引っ掛かった。