水の流儀

 巨大な温室は遠くから見ても目立っていた。
 近づけは、その中に透明な水を湛えた泉があり、様々な植物が葉を茂らせているのが見える。
 柔らかな光の差し込む暖かい温室は、こんな時でもなければさぞ居心地のいい場所だったに違いない。
 しかし、透明な壁の向こうでは美しい泉を背にした水の五老が、光を反射するナイフを手にツツジに歩み寄っている。彼女を止めるべく、二人から目を離さずにマツラたちは走る足を加速させた。
 ツツジの姿は目の前にあるのに、温室の入口は一向に現れない。

「ねえ、この壁ぶち破っていい!?」

 痺れを切らしたのはオカリだった。苛立ちもあらわなセリフに、ラクトがすかさず入口を探したほうが早いと言い返す。
 そうこうしているうちに、水の五老とツツジの間の距離は縮まっていく。

 青い顔をしたツツジに向かい合う、ナイフを持った女。
 水の五老スイの顔に穏やかな微笑みがある。
 彼女の表情に重なるように、ラクトが言った「やばいぞ」という言葉を思い出し、マツラは背筋が寒くなった。
 焦る視界にようやっと温室の入口が見え、飛びつくようにして大きく開け放つ。
 入口が開き切るのも待ち遠しく、マツラは大きな声で叫んだ。

「スイ様やめてください!!」

 だが、止めた声は一足遅い。
 温室の中から冬とは思えないほど暖められた空気が押し寄せてきたとき、スイの白い手がツツジの腕を掴み、反対の手に握られていた刃は流れるように一閃した。

 赤い雫が見えた。
 迷いの無い動作で、水の五老はツツジをそのまま池へ突き落とし、彼の悲鳴は飛沫をあげた水音に掻き消される。
 全身から血が引いて行く感覚に、マツラは真っ青な顔で立ち尽くした。

 ツツジが、切られた。そして、まるで捨てるように池に落とされた。
 早く助けないと。ツツジが死んでしまうかもしれない。

 青い顔で震えるマツラの代わりに、ツツジの名を呼んだのはオカリだった。
 マツラの脇を、素早く駆け抜けて一直線に波紋の残る泉へ向かう。
 不揃いな金髪が陽光にきらめいて、光の矢の残像を残す。
 だが、大きく両腕を広げた水の五老が、飛び込もうと構えたオカリの前に立ちふさがった。
 湖面を写したような瞳は冷ややかにオカリを見る。

「落ち着きなさい」
「うるさいっ!! アンタが言うな!!」

 怒気もあらわに言い返したオカリは、このままスイにとびかかりかねない。
 マツラを支えるようにしながらオカリに追いついてきたラクトも、水の五老に非難の目を向けた。

「スイ様、これはどがん事ですか!」
「彼には治療術を使えるようになってもらわないといけないの。そのために必要な事よ」
「必要ですって!? これが!?」
「だからって……こんなの、あんまりです」

 激昂するオカリとは反対に、呟くように言ったマツラの言葉にスイの眉がはねる。

「あなたのためでしょう、マツラ。あなたと共に行くために、ツツジはこうする事を選んだのだから」

 知らないのか、と言いたげな彼女の視線に、冷たい手に胸を掴まれた気がした。
 言い返す言葉すら出てこず、スイを見つめたまま動けないマツラの腕をラクトが痛いほど強く握る。
 彼の握力は、マツラが逃げる事を許さない代わりに「大丈夫だ」と言っているようだった。
 それでも胸に落ちてきた石は大きく重い。
 スイが行った事は、ツツジが“マツラのために”選んだ事。
 その事実は一秒ごとに重量を増して、マツラの胸を圧迫していく。

「っ、ふざけんじゃないわよ! それでもツツジを傷つけたのはアンタよ!!」

 停滞した空気を引き裂くように、オカリが声をあげる。
 言うや否や、止めようとした水の五老を押しのけた彼女は、今度こそ池に飛び込んだ。

「オカリちゃ……!」

 大きな飛沫があがり、一瞬呆気にとられたマツラは青い顔をさらに青くして泉に駆け寄ろうとしたが、ラクトはそれを許さなかった。

「お嬢まで飛び込んでどがんすっとや!」
「でもっ!!」

 言い聞かせるように腕を引かれ、マツラは歯を食いしばってラクトを見上げる。
 お前のせいだと言われて、言い返す事すらできなかった。
 自分が招いた結果を突き付けられ、とてつもなく恐ろしく感じた。
 確かにオカリを追いかけて飛び込んだところで、泳ぎに達者なわけでもないマツラは潜る事すらできない。
 けれど、最初から自分がもっとちゃんとしていれば、全部回避できたかもしれないのだ。

「私だけここで見てるのは変だよ……!!」
「落ち着きなさいマツラ。二人ならすぐに浮いてくるわ」

 ラクトが押さえる腕を離せば今にも池に向かいそうなマツラに、スイは変わらず落ち着き払った声で言う。

「そもそも、オカリ・ユフとあなたでは今までくぐってきた修羅場の数が違う。あなたが後を追って飛び込む事は、彼女だって望んでなどいないでしょう」
「くぐってきた、かず……」
「オカリ・ユフの真似をするのも結構。でも、それをあなたの形に落とし込まないと意味が無いわ」

 手始めにその不安げな表情を引っ込めなさい、と続けてスイはオカリが飛び込んだ水面に目を向けた。

「ほら、二人が戻ってくる」

 水面が大きく揺らいで、オカリが顔を出す。目を閉じてぐったりしたままのツツジをラクトに引き渡すと、彼女は滴る水滴もそのままに横たわるツツジの頬を叩きはじめる。
 目を開けなさいと厳しい声で繰り返すオカリの声を聞きながら、マツラは冷えた指先を手の中に握り込んだ。

「ツツジ……」

 穏やかで優しい兄弟子は、自らを危険にさらしてまで知識や術を得ようとするような性格ではなかった。
 そんな事をしなくとも、勤勉な彼はじゅうぶんに色々な事を知っていたはずだ。
 どうして、こんな事を。
 喉まで出かかった呟きに、食堂でツツジの言葉がよみがえる。

“マツラさんと行くって、決めたんです”

「どうして」に対する答えは、ひどく簡単だ。
 水の五老も言ったように、彼は言葉の通り決めたのだ。
 五老からの命令。魔王討伐に向かうマツラと共に往くために、水の五老に教えを乞う事を。

 オカリの呼びかけでやっと目を開いたツツジの腕には、もう血の流れる傷は無い。
 水の五老の試練を無事に成し遂げたのだと察すると同時に、万が一失敗していたらと思うと心底ぞっとする。

「いつもいつも、無茶するなって言ってるのはアンタでしょ!?」

 起き上がり不思議そうに首を傾げるツツジに、死ぬところだったと怒鳴るオカリは、マツラの言いたいことも全部代弁してくれた。

 どんなに心配していても、ツツジを巻き込んでしまった自分は、オカリのように躊躇いなく怒ったり悲しんだりする資格は無いような気がする。
 良かったと胸を撫で下ろす事はできても、彼が行動するきっかけとなってしまった自分は、スイの言うように不安を顔に出してはいけないのだ。
 だから、困惑した顔の兄弟子と目が合ってマツラはとっさに小さな笑みをつくった。

「オカリちゃん、ツツジが池に落ちたのを見てすぐ飛び込んだんだよ。オカリちゃんが、一番心配してたの」

 それ以上を言う事が出来なかった。
 代わりに、頭の中で声を聞いた。

 腹を括れ。

 誰の声かさえ曖昧な声は、言い聞かせるように繰り返す。
 腹を括れ、マツラ・ワカ。
 傷ついていない人なんていない。
 仲間にここまでやらせて、迷っていいはずがないだろう。
 悩むための時間はとっくに過ぎている。決意しろ。

 繰り返される声に、息を吸いながらゆっくりと目を閉じる。

 ―――彼らの思いに応えないと。

 そっと開けた視界で、スイが再びナイフを手に取り自らの指先に刃を当てた。
 ぽたりと滴る赤い雫に、とびかかるようにしてツツジが媒介を手に取る。
 マツラたちが見守る中スイの傷が塞がり、代償に近くにあった鉢植えの小さな植物が萎れていく。
 鉢植えの中の、茶色にひからびた残骸がマツラの目に焼き付いた。

 もうじゅうぶんだ。
 こんな事、早く終わらせたい。
 この緑の瞳が呼び込む不穏な物事に、周りのみんなを巻き込みたくない。

 魔王を倒す。そして、みんなの平穏を取り戻す。

「終わらせるから……」

 口の中で呟いた声に、隣に立つラクトが小さく身じろぎしたのを感じた。

「お嬢……?」

 掠れた声が呼びかけたが、マツラは彼の顔を見る事ができなかった。

「ごめんね、私……私が、終わらせるから」
「お嬢、それは……」

 何か言おうとしたラクトは、それ以上何も言わなかった。
 マツラの視線の先では、水の五老が満足げな笑みを浮かべている。

「ようこそ、“こちら側”へ」

 ツツジに向けられた穏やかな歓迎の挨拶は、マツラの耳には奈落への案内のようにしか聞こえなかった。