つなぐ窓は開けられた
夜が更けても、広場の喧噪は頭の中で繰り返された。
自分の名を連呼する声が耳から離れない。
彼女を逃がさないために用意された部屋で、消えない歓声を頭から追い出そうと耳を塞いだまま、マツラは次の朝を迎えた。
朝食を運んできた火の秘書は、何か欲しいものがあれば遠慮なく頼みなさいと言い残した。
この部屋から出る事は許されないが、それ以外の望みならば可能な限り対処するという彼女の言葉に、マツラは俯いたまま返事をした。
どうしたらいい?
答えの見えない問いは、マツラの名前を繰り返す大勢の声に代わって頭の中にこだまのように響き続ける。
一体いつまでこの部屋にいればいい?
この部屋で、なにを待てばいい?
出来る事ならケムリと共に、カル・デイラの家に帰りたいだけなのだ。そして今までのように修業をしていきたいだけだったのに。
しかし到底受け入れる事のできない状況を受け入れてしまった
結局、自分は何も変わっていないのだ。
その場をどうにかおさめるため、停滞した状況を変えようと、望まれる答えを選んでしまう。
違うのは、今のマツラには目標があったという一点。
自分の将来すらおぼろげにしか見えていなかった過去のマツラは、家を支えるという選択によって目標ができた。
上位魔術師の資格をとり、一人前の魔術師になるという目標を掲げていた今の彼女にとって、魔王の討伐は意に反する選択でしかない。
受け入れろ、やるしかない。
なんとかして回避できないものか。
いや無理だ、やはりやるしかない。
頭の中で考えが一周してはまた同じところに戻って来る。
ひたすら続く問答に、吐き気すらして、唇を噛んで視線を落とした。
納得する答えを与えてくれる誰かは、ここにはいない。
それは自分自身で導き出すものだ。
「私に、なにができるっていうの?」
魔王を倒す。
果たしてそれは、本当に出来る事なのだろうか?
きつく握りしめた手に視線を落とす。
ほんの少し前まで、この右手は針を持つためにあったはずだった。
―――困ったときは、手を動かしなさい。
村にいた頃、ベテランの老婦人に言われた言葉がふと思い出された。
嫌な事を忘れるためでもいい。
どんなに困っていても、手を動かせば商品ができる。
悩んでいても無意識にでも、この手は動かせば動かしたぶんだけ、お金を生む事ができる。
針を持てる限り、手を動かせば私たちは商品を生み出す事ができる。
幸いな事に、あなたの仕事は素晴らしい。
今がどんなに苦しくても、いつか必ず好きなものを作れる日が来るはずだから、どうかこの仕事を嫌いにならないでほしい。
「嫌いになんて、なってません」
今まで困った時の突破口はいつも、この両手が描き出す色糸の模様だった。
決して器用ではないマツラが、唯一自信を持てるもの。
八方塞がりの今だからこそ、再び針を手に取らなくては。
たとえそれが現実逃避だと笑われたとしてもかまわない。
マツラが描く刺繍のおまじないは魔法に変わる。
かつて修業の地でケムリは言った。
―――きみはいつだって、まじないを操る魔法使いなんだよ。
あたたかい声を思い出し、胸が熱くなる。
この手で出来る事はとても少ない。
少ないけれど、確かにあるのだ。
「道具を……」
部屋の隅に置いてある荷物に向かう。
宿は引き払われ、彼女の荷物は全て運び込まれていた。
旅の荷物の中から、道具を入れているケースを取り出し深呼吸のあとにぐるりと辺りを見回した。
カーテンを留めている幅広のリボンに目をつけると窓に近づき、リボンの端を引く。
小さな衣擦れの音をたてて解けたリボンを手にソファーに座ったマツラは、目の前のテーブルに道具を広げて目を閉じた。
瞼の裏に淡く輝く点と線で模様が描き出される。
嫌というほど何度も繰り返し描いてきた図案が展開され、複雑に絡み合いながら広がってゆく。
幸運を祈り良い知らせを願うモチーフに、自然と口元がほころんで、針を手に取ったマツラの頭から、煩わしい声が消え失せた。
黙々と手作業をするマツラの姿に火の秘書アサヒはドアの前から動けなかった。
初めて顔を合わせた時からマツラの瞳に絶えず浮かんでいた不安や怯えがその影をひそめている。
自分の手元だけを見つめる少女の眼は穏やかで力強い光に満ち、数日の間で喧騒と共にめまぐるしく変わった彼女の身辺とは対照的に、何もかもを落ち着かせるような柔らかで静謐な空気がそこにあった。
まだ若すぎる娘を中心にして部屋を満たす空気は不思議と心地よく、訪問者に気付く事無く集中するマツラに声をかける事はためらわれる。
彼女の新緑がアサヒを見た瞬間にこの部屋を包んでいるものが消え失せるのかと思うと、「食事に行きましょう」という一言さえ口にする事はできなかった。
アサヒの同行という条件のもとで食堂へ行く許可が下りた事を伝えたかったが、どちらにしろ自分が傍にいた所でマツラにとってはストレスにしかならないだろう。
もっと彼女が心を許した人間でなければ。
しばらくマツラの様子を見守ってから、アサヒは静かに部屋を後にした。
移動魔法陣が使われた。
その知らせがマツラのもとに届いたのは、囚われの部屋でマツラが刺繍を始めた次の朝だった。
食堂で好奇の目に晒されながら食べる食事に疲弊して、戻ってきた部屋、ソファーの上で大きく息を吐いたとき、さっき別れたばかりのアサヒが慌ただしく扉を開けた。
「マツラ、ツツジのもとに送られた移動魔法陣が使用されました。ツツジが帰ってきます」
普段よりも早口にそう告げたアサヒの後ろからケムリが顔を覗かせた。
兄弟子が帰国してくる事はモクからも聞かされていたが、それにしても早すぎる。
驚きと困惑に師を見ていると、アサヒはマツラのほうに一歩近づく。
「許可はとってあります。ケムリと共にツツジを迎えに行きなさい」
大きく扉を開いて外を示したアサヒと、廊下からマツラを見るケムリを交互に見ると、「大丈夫」とアサヒが頷いた。
その声や表情は、やはりケムリの妻に似ている。
立ち上がったマツラは一瞬だけカーテンのほうを見遣ると、すぐに二人のほうに視線を戻した。
「ありがとうございます」
窓はまだ閉ざされたままだが、そのカーテンにはほんの少し装飾の増えたリボンが結ばれていた。
長い廊下を走るようにして進むケムリの後を追う。
迷いなく進む彼の半歩後ろから、マツラは尋ねた。
「師匠、ツツジは……?」
「この城にも移動魔法陣がある。ツツジたちはそこに到着するはずだ。それよりもマツラ、きみのほうは……」
躊躇いがちに続いた、大丈夫なのかという問いに、軽く目を伏せる。
「わかりません。正しい事だったのかって、まだ考えています」
そうか、と短く答えたケムリにも、どうしようもできない事だ。
低くなった声に申し訳なさを感じて、ケムリのせいではないと伝えるため、そして自分に言い聞かせるために、マツラは努めて明るい声を出した。
「心配しないでください。きっと、いい方向に動きます。私の刺繍は魔法だって言ってくれたのは師匠たちじゃないですか。信じてください、きっと何か変わるはずです。だって、私はあの部屋から出る事もできるようになりました」
良い事なのか悪い事なのかはわからないが、状況は少しずつ変わっていく。
今は良い方向へ向かっていると信じる事しかできないのだ。
「……そうだね、マツラ。それと、後でアサヒさんにお礼を言わないと。君が自由に部屋から出られるように、五老に掛け合ってくれているのは、あの人だから」
ケムリの言葉にマツラは目を見開く。
食堂へ行けるようになったのも、今こうやってツツジを迎えに行けるのも、彼女の力あっての事だったとは思いもしなかった。
ケムリに教えてもらわなければ、ずっと知らないままだったはずだ。
じわりと胸の奥が熱くなる。
ここでは周りのすべてが敵だと思っていた。
火の秘書アサヒも、ニチの側近だと聞いていたから五老側の人間だと思っていた。
本当はそうじゃないのだとわかった、それだけでマツラは随分救われた気分になれた。
長いこと廊下を進み、やがて白い扉の前にたどり着いた。
その中にこの城の移動魔法陣があるのだと説明され、マツラは恐る恐る両手で触れる。
予想した痛みはなく、安心して扉に触れた手に力を込めた。
微かな音を立てて開いた扉の隙間から、滑り込むようにして中に入ると広間になっている。
向かいの壁にひとつ、小さな扉がある。
「あの小部屋の中が移動魔法陣だ」
ケムリの声に、マツラは駆けだした。
後ろからケムリが追いかけてくる足音がする。
久々に会う兄弟子は元気だろうか。
急に帰国する事になって、どう思っているのだろう。
何が起こっているのか、彼はもう知っているのだろうか?
気になる事は多々あれど、なによりも今は帰って来る彼に伝える言葉がある。
目指す扉が開く。
ゆっくりな動きに、どきりと胸が高鳴り、体温があがる。
扉のこちら側をうかがうように、繊細な顔の少年が出てきた。続いて、見知らぬ少女と彼女を支えるようにして小麦色の髪の青年が。
目が合うと、眼鏡越しに少年の眼が大きく見開かれた。
濃い疲れの色が滲んではいるが、変わらない懐かしい顔だ。
まっすぐに彼の前まで走り、マツラは本来ならもっと先にの未来で言うはずだった言葉を口にした。
「ツツジ! おかえりなさい!」
「よく頑張ったな!!」
続いたケムリは、両腕を大きく広げると返事をしようとしたツツジを力いっぱい抱擁した。
「色々あっただろうが、深いことは気にせず、僕の胸で泣いてもいいぞ!!」
旅から戻ってきたばかりの弟子を、息もできないほどぎゅうぎゅうと締め上げる。
久々に聞く師匠の嬉しそうな声に、マツラは胸が苦しくなった。
ケムリは感情表現が大袈裟な人だ。
魔王が現れる前のケムリは、いつだって的外れなほど明るい人だったのに、ここ試験のあの日以来彼の笑顔はすっかり消えていた。
兄弟子を締め上げる師の姿を眺めながら、今となっては懐かしいとさえ思う、カル・デイラでの日々に思いを馳せようとしたところで、ツツジに続いて扉から出てきた青年が呆れたようにケムリを見る。
「おいケムリ、離してやらんね」
ジタバタしているぞ、とツツジを指さしたのは彼と共に任務にあたっていたラクト・コヒ。
彼の言葉で、ケムリは気が付かなかったと言いながらツツジを解放した。
ケムリに比べればまだ小柄な弟子を見下ろすと、しかと確認した、と言いたげに満足そうにひとつ頷き、乱暴に少年の髪を混ぜる。
「おかえり、僕の一番弟子」
「はい。ツツジ・ナハ、ただ今グランディス王都ツキサより帰りました!」
小柄な少年は、師に答えるように力強い声でそう宣言した。
ケムリはツツジのグランディス行きに反対していた。
かの国は人一倍穏やかな弟子には向いていない事を、じゅうぶんに知っていたケムリが止めるのを説得して、ツツジは旅立った。
弟子の旅立ちにひどく落ち込んでいたケムリは今、傍目にもわかるほど安心した表情でツツジの帰還を喜んでいた。