そこから動けないのなら
太陽が沈みかけた廊下は暗く、等間隔で配置されている明かりがマツラとモクの影を長く伸ばした。
もうそんな時間なのかとマツラはふとケムリから事前に聞いていた話を思い出した。
ダケ・コシ昇位試験が行われる間、夜の街は祭りのような賑わいに包まれる。
明るく火を焚き、露店が並び一年で最も日が短い季節ではあるが、一年で最もダケ・コシが賑やかになる時期でもある、と。
本当なら今夜は試験を終えて、ケムリに連れられ街を見て回る。
とても楽しみだった。
故郷よりもずっとずっと大きな街の、人が一番集まるという季節の賑わいに飛び込む事が。
間違いなく、わくわくする時間が過ごせると思っていた。
もう無理だろうという事は、誰に言われずともわかる。
それどころか、今夜その賑わいが街にあるのかも怪しいのだとも。
モクは力任せにマツラを引っ張り続ける。あくまで彼に抵抗する姿勢を見せながら、マツラは何気ないふうを装って尋ねてみた。
「あのっ、街の様子は……その、どうなんですか?」
「街? あぁ……そうだなぁ」
マツラの問いに一瞬不思議そうな顔をしたモクは、困ったように外に目をやると、いつもと変わらない、と短く答えた。
「違うのは、魔王復活と緑眼の魔術師の話題でもちきりってところだけだよ」
それは果たして、いつもと同じと言うのだろうか。
少し違うような気もしたが、彼の答えにマツラは「そう」と小さく頷いた。
マツラがその街に遊びに行けるのは、まだまだ先の話になりそうだ。少なくとも、今年は無理だ。
「モク様、どこまで行くんですか。部屋に戻りましょう」
「だめだ。何回言わせるんだよ。行くんだ、マツラ。もう着いたんだから」
何度めかの「帰ろう」に、呆れ果てたように答えたモクは大きな扉の前で立ち止まった。
どこからか、大きな賑わいが聞こえてくる。
これが街の賑わいだろうか、と少し考えてながらマツラは両開きの扉をじっと見つめた。
「この中に何があるの?」
「行けばわかる。行くぞ」
マツラの静止を無視して、モクは勢いよく扉を開けた。
ざわめきが大きくなり、奥のほうに明かりが見えた。どうやら幕がはってあるらしく、あたたかいオレンジの光はその向こうでちらちらと揺れている。
さあ、とマツラの腕を引くモクは大股で進んで行く。
「ちょっと! 待って! 何があるの!? 私は行きたくない!」
嫌な予感がする。
ここで抵抗しないと、もう先は無い。
まさかこんな子供に力で負けるはずがないのに、マツラは木の五老を振り切る事ができなかった。
光の漏れる幕はもう目の前で、モクはちらりとマツラを見て、低く言った。
「ちゃんと、前を見とかないとだめだぞ」
どういう事かと聞く前に、後ろに回ったモクに力いっぱい背中を押された。
踏み止まる事ができずによろめき、倒れるかと思ったところで割れんばかりの歓声が降ってきた。
驚いて目を開くと、急な明るさに目の前が真っ白になった。
頭の芯が痺れるような感覚が収まれば、周囲を見る事ができる。
目の前にはモク以外の五人の老魔術師が揃って立っていた。
視線を巡らせれば、マツラは彼らと高い場所に立っている。
夜だというのに、焚かれている灯のせいかあたりは明るく、自分の立つ場所はどうやら舞台のようになっているのだとわかる。もっと低い場所は広場のようになっていて、大勢の人たちが集まってこちらを見上げていた。
興奮のせいか、頬を紅潮させてこちらを見る彼らの表情まではっきりと確認できるほど、その場所は明るかった。
目を見開き五老を見ると、満足気な表情をした老爺が腕でマツラを示した。
「彼女こそが、かのミウ・ナカサの力を受け継いだ魔術師、マツラ・ワカじゃ」
枯れ枝のように痩せた身体から出た声は驚くほどよく通り、人々の歓声をかき消して広場に響き渡った。
最初に会った時はわからなかったが、木の五老モクがあの子供だとわかった以上、彼が土の五老シイに違いない。
「復活を遂げた魔王を唯一倒す事のできる緑眼の魔術師は、近く魔王を倒すべくここを出発する! これは大変な任ではあるが、かつてミウ・ナカサと先人たちがなす事の出来なかった偉業を成し遂げる事ができる者は他にはおらぬ! そうであろう? もし他に我こそはという者がいるのならば、名乗り出てみよ!!」
彼の問いに、広場の歓声はさらに大きくなり、やがてその声はマツラの名前を呼び始める。
見知らぬ大勢がひたすらマツラの名前を呼び続ける。
耳がおかしくなりそうだった。
興奮に湧く人々に恐怖すら感じ、どこか異様な光景にマツラの身体が竦み、肌が粟立つ。
自分は今、とんでもない所にいる。
立ってはいけない場所に来てしまった。ここは、一度立てば後戻りが許されない場所だ。
―――モクに嵌められた。
行かなければ後悔すると彼は言った。
彼らはマツラがここに来なければ、マツラ不在のままで緑眼の魔術師の魔王討伐を宣言したのだろう。
マツラの知らぬ所で物事が動いていたに違いない。
しかし、例えそうだとしてもここに来てはいけなかった。
顔を、姿を、知られてしまったら本当に逃げられなくなる。
「も、戻らないと……」
振り返れば、逃がさないとばかりにモクが立っていた。
「逃げるな」
木の五老の口は、確かにそう動いた。
一歩踏み出した彼はマツラの前まで進み出ると、ここまでマツラを連れてきた時のようにしっかりとマツラの腕を掴んだ。
「みんな! マツラはきっとやってくれる! マツラがいれば、魔王の存在する暗黒の時代なんて阻止できる!」
張り上げられた彼の声に、これ以上大きくなる事は無いかと思われた広場の歓声はより大きくなる。
「やめて!」
慌ててモクにそう言うが、マツラの声は人々の声にかき消されてしまう。
あるいは、同じ場所に立っている五老には聞こえていたかもしれない。しかし彼らはマツラの声には何の反応も示さなかった。
この場所に、マツラの味方は誰もいない。
手足が一気に冷えていく。その割には心臓がいやに早く動いている。
熱くもないのに、じわりと額に汗が浮かんできた。
火の秘書声が頭の中に蘇る。
―――あなたは覚悟しなければならない。強い意志を持たないと望まぬ方向に流されてしまう。
彼女の言葉はまさしく正解だった。
どうする事もできないまま、五老に流されてしまった結果がこれだ。
だがここまでの時間に、覚悟を決める余裕などあっただろうか。
覚悟とは、何だ?
五老に反抗する事か?
魔王を倒す事?
それとも、この状況を受け入れる事だろうか。
身動きが取れないのなら、これから起こる物事を、置かれた状況を受け入れろと、そういう覚悟だろうか?
状況を受け入れる事ならば、ずっとそうしてきた。
受け入れたからこそ、家計を支えるのは自分だと覚悟して仕事をしていた。
貧しい暮らしも耐えてきた。
そして、覚悟を決めて魔術師の道を選んだのだ。
魔術師は専門職だ。しっかりと修行を終えた暁には今よりもずっとたくさんのお金を稼ぐことができる。
日々の生活に困らず、いざという時のための蓄えを工面できるだけの稼ぎがほしい。
だから、どうしても上位魔術師までの資格をとらなければいけない。
一人前の魔術師になって、お金を稼ごう。
それがマツラの目標だった。
魔王を倒す。
そんな事のために魔術師になると決めたわけじゃないのに。
――やるしかないのか?
これは、あの時ととても似ている。
家を支えるのは自分だと決めた、あの時と。
両親とマツラ、そして村長と父にお金を貸してくれた隣町の金貸しとで机を囲み、どうするのかと問われた。
ひたすら口を閉ざす父の代わりに、母はひたすら頭を下げた。
相手の目を見て「私がやります」と答える事しかマツラにはできなかった。
そうしなければ、あの話し合いは永久に終わらなかったし、借りた物を返す事もできなかっただろう。
「私がやります」
その一言がどれだけ重要な意味を持っているのか、マツラは知っていた。
ただひとつ、その言葉で話し合いは丸く収まった。
代わりに定期的な取立て人が訪れるようになった。
仕事を請けるようになってからも、その言葉と共に頷けばマツラの商品を指名してもらえた。
やがてマツラの評判は徐々にあがっていった。
けれど、本当はあの時も今も「どうして」と怒りたくて仕方なかったのだ。
それでは何も解決しないと飲み込んだ怒りや憤り、悔しさや悲しさ。
誰にぶつけていいのか解らない感情を、飲み込むことなく口にしたかった。