次に向かう約束

「そんな話、聞いてない」

 呟いたマツラは、へなへなと床に座り込む。
 信じられないものを見る表情で、オカリもユウヒを凝視していた。

「騙したわね。何がただの主婦よ」

 恨みたっぷりに低く言うオカリに「嘘じゃないわ。今は主婦だもの」とユウヒはうそぶく。

「次は絶対圧勝してやる」

 ぎりぎりと唇を噛むオカリだが、彼女の決意を聞きつけたケムリが「駄目だ」と釘を刺した。

「これ以上は僕が許可しない。次はもう無い。いいね?」
「それがさっき言ってた約束? あんた束縛系なわけ?」
「違うわ」

 棘のある声に重なるのは、顔をあげたユウヒの、角のとれたなめらかな声。

「人に怪我をさせないって、私が約束したの。手加減できないなら、もう誰かと殴り合ったりしない、って」
「馬鹿にしないでよ。現役退いて何年経ってると思ってんの? アタシは怪我なんてしてない。次は圧勝して終わりなんだから!」

 腕を組んで胸を張るオカリをぽかんと見つめ、次の瞬間、ケムリとユウヒは糸が切れたように笑い始めた。
 つられてラクトも肩を震わせ、オカリは不本意だと言いたげに大人たちを見る。

「ちょっと! どういう事!?」
「腹を立てたなら謝るわ。でもあなた、面白すぎる」

 憤慨するオカリをなだめながら、ユウヒは目尻を拭い、改めて異国からやってきた少女を頭からつま先まで眺めた。
 細く柔らかな淡い金の髪、驚くほど自信に満ちた紅い瞳と、整った顔立ちに、しなやかで力強い肢体。
 彼女の未来は、まだ希望に満ちている。
 マツラやツツジもそうだ。
 彼らの行く先は、大きな可能性が広がっていて、諦めるにはまだ早い。
 魔術師ですらないユウヒにできるのは、この子達なら大丈夫だと信じて、どうかその行く先で心折れる事の無いようにと祈る事くらいだ。

「そんなに悔しいのなら、またいつか再戦しましょう。その代わり、全部終わった後でね。残念だけど、今は私の事よりも、五老のお話のほうが大切だわ」

 そう言ったユウヒが向けた視線の先、開けっ放しだったドアの前に、モクとフウがやって来た。
 部屋の惨状を目にしたモクは、大きな目をさらに大きく見開いて声をあげる。

「なんだよこれ!! お前ら何やってんだ!? ひとんち壊すなよ!!」
「言った通りだったろう、モク」

 溜息と共に、フウは「もう一部屋用意しておいて正解だった」と続けてぱんぱんと手を叩く。

「はい、全員別室へ移動するから、ついて来るように」

 来た廊下を引き返す二人の五老の後を追い、マツラたちもぞろぞろと大暴れした部屋を後にした。


 さっきよりも広い部屋に、大きなテーブル。並ぶ椅子の数も増えているのを確認して、マツラはこっそりと息を吐いた。
 また勢揃いした五老と顔を合わせるのは必至。
 その圧力を思い出すと気が滅入る。

 ケムリを先頭に、ラクト、ツツジと続き、マツラの隣にはオカリが、そしてその隣にユウヒが座ると、タイミングを見計らったようにして残り三人の五老が入室してきた。
 そして、最後に王宮の魔術師、リモがドアを閉めて一同を見渡した。

「全員お揃いね」

 そう確認したリモの視線を受けて、最初に口を開いたのは土の五老シイだった。

「疲れておる者もおるようだから、できるだけ手短に済ませようと思う」

 深い皺の刻まれた顔で、鋭い双眸が一度マツラたちを見渡し、シイは息を吸う。

「これから我々が行うべきは戦力の増強じゃ。第一、マツラが満足に魔法も使えんようでは、話にならん」

 そこで、と言葉を切って、シイはマツラとリモを見比べる。

「マツラとオカリは明日リモと共に王都へ向かえ」

 ゆっくりと放たれる声に、マツラは目を見開いてケムリと、そして五老を見る。

「えっ……? 私とオカリちゃんだけですか?」
「そうだ」

 質問に頷いて、シイは続ける。

「王都にて、リモから学べ。オカリには魔術師と戦える戦士になってもらう。あちらには、対魔術師の戦い方を教える事のできる奴がいる」

 隣で「はァ?」と語尾の跳ねた声があがり、見ればオカリが不満そうに口をへの字に曲げていた。
 ケムリは腕を組んだまま眉間に皺を寄せて五老を見ている。
 彼はこの事を事前に聞いていたのだろうか?
 ともかく、良い事だと受け取っている様子ではない。

「どうしてですか」

 ぎゅっと手を握り締めて絞り出した声は、心なしか普段より少し低い。
 なぜ、ダケ・コシでは駄目なのか。マツラとオカリの二人だけが、王都へ行かねばならない理由は、何なのか。
 テーブルの上を見つめるマツラに、向かい側に座るリモが大きく息を吐く。

「どうしてもなにも、これ以上ケムリ・マリのもとに居たとしても、あなたの成長が見込めないからでしょう。あなたは、彼の手には余るわ」

 辛辣な口調に顔をあげたマツラは言葉を失う。
 それを肯定と受け取ったのか、リモは腕を組んで続ける。

「わたくし、正直なところ自分が他人にものを教える事には向いていないと思いますの。けれど、これははるか昔からの魔術師の悲願であり、わたくしとしても無視する事のできないものですから」

 饒舌な彼女は、自信に満ちた笑みで口を閉ざしたケムリと、その弟子達を順番に見た。

「幸いな事に、わたくしには魔聖ゆえに蓄積できた膨大な知識があります。異質なものを鍛え上げるには、こちらもまた、異質なものが対応するのが最も効率的ではありません?」

 その隣に座っていたモクの表情が曇ったのを、マツラは見逃さなかった。
 しかし五老の少年が口を挟むより前に、ラクトが飄々と声をあげる。

「リモさん、性格悪かとの全面的に出とるよ」
「なんですって!?」

 語気を強めたリモを無視して、ラクトは腕を組む。

「そして、俺らの聞きたかとは、リモさんの話じゃなか」

 猫を思わせる瞳が、シイとニチを捕らえた。

「マツラをケムリに任せたとは、確か五老の判断やったはず。そいば今更変えるとはこっちも納得いかん。一体何を企みよるとか、きっちり説明してもらおうか」

 言葉のあとの、小さな無音が耳に痛い。
 ぱちぱちと薪の爆ぜる音が微かに何度か響いて、仕方ないとばかりに息を吐いたニチを、フウが物を言いたげにそっと見る。

「ニチ様」

 名を呼ぶ穏やかな声に一度目を瞑って、火の五老は「わかったよ」と頭を振る。

「ただし、納得してもしなくても、決定には従ってもらうからね」

 そう釘を刺して、ニチはゆっくりとマツラたちを見回した。

「何を企んでいるのか、と言ったね」

 鋭い視線がラクトを捉える。

「さっきリモが言っただろう。我ら五老は、先人達の願いを引き継ぎ、魔王を倒すべく動いている。それだけだ」

 そしてそのためには、と続けたニチはマツラとオカリに視線を移した。

「この二人を、もっと成長させないといけない。今のままじゃ同じようにやられて終わっちまう。だから、戦力を強化して挑む。誰も死なせやしない」

 老婆の声は、マツラの耳に入って頭の芯を締め付け、肌が麻痺したようにびりびり痺れる。
 部屋の温度は暖かいのに、背筋がすっと冷えるような気がした。

 勝つんだ、とニチは瞳を煌めかせる。
 燻る炎を思わせる、静かに燃える凶暴な光。

「役者は揃った。次は舞台を整える」

 興奮を抑えた様子で、ニチは拳を握りしめ、息を吸う。

「今度はあたしらが勝利を収めるシナリオで、昔話の再演をするんだ」

 どこかで聞いたその言葉は、とどめだと言わんばかりに、ぶすりとマツラの耳に突き刺さった。