平和には程遠い

 頭から被った泥汚れを落として、綺麗な服に着替えると気分も晴れる。
 指定された部屋に行くと、そこにはもうツツジたちが揃っていた。
 テーブルを囲んでカードゲームに興じていた彼らは、マツラの来室に一斉にこちらを向く。
 ツツジとラクト、そして紅一点オカリの異変に、マツラは目を丸くした。

「髪、切ったの?」
「流石にあのままじゃね。短いのも似合うでしょ?」

 にっと笑ったオカリに、マツラは勢いよく首を縦に振る。
 肩より短くなった髪を摘まんで、自信たっぷりに「似合うでしょ」と言ったその言葉のままに、髪の長さひとつでは彼女の魅力に陰を落とす事はなかった。

 オカリが空けてくれた席に腰を下ろしながら、「師匠はまだ?」と尋ねると、ツツジが頷く。

「一緒に戻ってきたんだけど……」

 身だしなみを整えるにあたって、ケムリのほうがマツラより時間を取る事など滅多にない。
 おかしいな、と首を捻るマツラの横で「そんな事もあるでしょ」と言いながらオカリが集めたカードを切る。

「それより、だいぶ待ってるけど五老も来ないしどうなってんのよ」
「呼ばれた人間が揃わないと五老は出てこられないんじゃないでしょうか。多忙な方達ですし」

 律儀に答えるツツジは、オカリが配るカードを受け取って時計を見る。

「僕はどんな話をされるか、のほうが気になりますけどね」
「私も」

 ツツジに同調して、マツラは息を吐いて背もたれに体重を預ける。
 柔らかいソファに座ったが最後、どっと疲れが押し寄せてきた。
 許されるなら、五老の話なんて後にしてベッドに横になりたい。
 そもそも、今日は色んな事がありすぎている気がする。疲れても当然じゃないか。

「……ごめん、ちょっと目閉じとくね」

 自分の疲労の理由に納得し、そのままゆっくりと目を閉じる。

「大丈夫かー? 寝とってもよかよ。ケムリたちの来たら起こすけん」

 気遣うラクトに「ありがとう、お願い」と返事をして、身体の力を抜いた。

 すぐ隣にいるはずのオカリの声が、ふわふわと膜一枚隔てた遠くで聞こえる。
 ゲームの勝敗で盛り上がる三人の声が、心地いい子守歌のようだ。

 ああ、ここは平和だ。
 穏やかで、暖かい時間。怖いものも、痛いものも、どこかへ行ってしまったよう。
 本山へ来る前に過ごしていたのどかな日々が思い出されて胸が苦しくなった。
 まだ、戻りたいと思ってしまう。
 きっと、それでは駄目なのに。
 戻りたい日々のために、戦わないといけないのに。

 揺蕩う思考は伸びては縮んで、滲んで消える。
 その中でふと視線を感じ、瞼の裏にぼやけた思考が収束する。

 一対の眼が、マツラを視ている。

 確たる気配に、マツラは勢いよく身体を起こした。
 開いた目に周囲の明るさが沁みて、思わず細めた視界では、さっきと変わらず三人がカードゲームを続けている。

 何も、変わりない。

 きょろきょろと室内を確認していると、オカリが不思議そうにマツラを見る。

「どうかした?」

 彼女の言葉に、ツツジとラクトもマツラに注目し、とっさにマツラは笑みを作った。

「……ううん、なんでもないよ。気のせいだったみたい」

 確かに感じたはずの気配は消え失せていたし、本当に自分の勘違いだったのかもしれない、と胸の内で言い聞かせる。
 気のせいと言うには、あまりにも強すぎた視線だったけれど。

「疲れてるのかも」

 今日は流石に無理をしすぎているのが自分でもわかる。
 今からまた五老からの有り難いお話があるのかと思うと、何日分も労働した気分だ。

「今日は早う休めよ?」

 そう言うラクトに素直に頷いて、マツラは自分の入ってきたドアに目を向ける。

「五老、まだかな」

 溜息混じりに呟いたとき、マツラの言葉を聞いていたようなタイミングでドアが三度鳴らされる。
 噂をすれば、と立ち上がりドアに向かったツツジは驚きに目を見開いて声をあげた。

「ユウヒさん!?」

 ツツジが開けたドアの向こうには、修行の地カル・デイラで彼らの帰りを待っているはずのケムリの妻、ユウヒが立っていた。

「ツツジ!! おかえりなさい! 帰ってきたって聞いて、会うのが楽しみだったのよ! 会わなかった間に身長が伸びたみたいね?」

 立ち尽くすツツジの手を握って微笑むと、ユウヒは、ツツジの肩越しに部屋を覗き、マツラとラクトに手を振る。

「マツラちゃん! 久しぶり! ラクトも!」

 見慣れた優しく華やかな笑顔に、マツラも言葉を無くして立ち上がる。

「ユウヒさん、なんで?」

 あっけにとられた顔でそう口にしたラクトに、部屋へ入ってきたユウヒは「なんでと言われても」と頬に手を当てて困ったようにちらりとオカリを見た。

「母さんとニチ様からの使いが来たの。ご丁寧に展開式移動魔法陣まで持って来るものだから、流石に断れなかったわ」

 ふう、と息を吐いたユウヒはオカリに定めた視線を細める。

「あなたが、グランディスからのお客様ね?」

 穏やかな笑みは崩さず、声の柔らかさにも一切の変化はなく。
 笑顔の中で、明るい茶色の瞳だけが鋭さを増した。
 マツラたちの脇を通り抜けて、オカリの正面に立ったユウヒは、右手を差し出す。

「初めまして。わたしはユウヒ・マリ。ケムリの妻よ。グランディスではツツジがお世話になったそうね。改めてお礼を言うわ」

 座ったまま、ユウヒをじっと見つめ返したオカリはゆっくりと腰をあげ、目の前に出された手を握り返した。

「こちらこ―――」

 言いかけた言葉を最後まで発する事なく、握った手に力が込められた瞬間、オカリの足は地面を離れた。

「ユウヒさん!?」
「オカリさん!!」

 マツラとツツジの悲鳴に似た声が響く。
 反射的に受け身をとって睨みつけた女は、さっきまでの笑顔が嘘のような顔でオカリを見下ろしていた。

「一本。この程度で良くまあ、武術王の再来だと言えたものね。それとも、ちやほやされて鈍ったのかしら?」
「ハァ!? なんなのよアンタ!」

 立ち上がって身構える視界の隅で、マツラがおろおろしている。
 ツツジは何か言いたげにオカリを見ているが、知った事ではない。
 ラクトは明らかに何か心当たりのある顔でユウヒを見ていた。
 彼らが何を思っているのかは関係ない。
 今、この場で、オカリがするべき事はただ一つ。
 至って簡単な事だ。
 売られた喧嘩は買うしかないと、昔から相場は決まっているのだから。

「何って言われてもねぇ。わたし、ただの主婦だもの」
「ばっかじゃない!?」

 頬に手を当て僅かに首を傾げるユウヒに、オカリは吐き捨てる。
 余裕を滲ませたユウヒは、答えるように小さく笑う。

「ただの主婦だけど、できる事もあるのよ?」

 マツラの知るケムリの妻とはまるで違う、鋭く鋭利な眼でオカリを捉えたユウヒは、大きく足を踏み出してオカリとの距離を一気に詰める。
 突き出される拳を寸手のところで躱したオカリは、流れる身のこなしで身体を低くし、足を払う。
 長いスカートとエプロンの裾をものともせず、器用にオカリの足を避けたユウヒに向かって、壁にかけられた絵皿が飛ぶ。
 回避したユウヒの後ろで、皿は大きな音を立てて砕け散った。

 悲鳴をあげたマツラを素早く引き寄せたラクトが壁際に避難し、示し合わせたようにツツジも隣に収まる。
 さっきまでマツラが呑気にうたた寝をしていた部屋は、さながら二人の戦場と化してしまった。

「ど……どうして……どうしてこんな事に……」

 青い顔で繰り返すマツラの耳元で、ラクトが疲れ切った溜息。

「どう見てもニチ様の差し金やろ。おいツツジ、どがんかしろさ」
「それ、無理だってわかってて言ってますよね?」

 顔を顰めるツツジも大きく息を吐いた。
 三人の「誰か早く止めに入ってくれ」という願いとは裏腹に、当の二人に戦闘態勢を崩す気はさらさら無いらしい。

「面白い、受けてやる。返り討ちだ」

 鋭く睨む眼と不敵に吊り上がる口元に、対するユウヒは軽く息を吐いて肩を竦める。

「私とやり合おうなんてお馬鹿さんは、あなたかケムリくらいのものよ」

 いつも穏やかなユウヒの瞳が、鋭く細められる。
 言葉の丸さはそのまま、硬度が上がり研ぎ澄まされた声には、部屋をノックしてきたときの穏やかな面影はなかった。