金色の敵意

 窓の向こうの空を横切った陰にオカリは目を見開いた。
 空を駆ける猛獣に似た黄金色の獣に、ぞわりと肌が粟立ち、ツツジを押しのけて窓際へ駆け寄ると、冷たい窓に張り付いた。

「魔獣だわ……! ツツジ、武器を!」

 低く張り詰めた声と凶暴に煌めいた眼に、ツツジはグランディスでのオカリを思い出す。

 暮れかけた森に立ち込める、火薬と血の匂い。そこいらから聞こえる呻き声と、獣の唸り声。そして、闘志に瞳を煌めかせ弓を引き絞るオカリ。
 グランディスの王都は自警団フリューゲルにおいて、人々に勝利の女神、もしくは戦いの聖女と呼ばれたオカリが目の前にいた。

「落ち着いてください、オカリさん」

 たしなめる声をかけながら、慌ててオカリの隣に立ち窓の外を確認したツツジは、そこでほっと胸を撫でおろした。

「大丈夫です。あれは、味方です。フィラシエルでは、魔獣を狩る必要は無いんですよ」

 しかし、オカリは表情を緩めず言い返す。

「ほっとけって言うの!? 今に誰か喰われるわよ!?」
「何もしなければ、魔獣は何の危害も加えてきたりしません。オカリさん、落ち着いてください。ここはグランディスじゃない。魔獣を狩るなんて、誰も望んでいません」

 腕を掴んで繰り返した言葉に、やっとオカリはツツジを見た。

「どうして」

 信じられない、という言葉を飲み込んだ紅梅色の瞳がまっすぐにツツジを向く。

 魔獣は、大きな体躯と美しい毛皮を持ち、普通の獣よりも更に鋭い牙や爪を持っている。
 それだけでもじゅうぶんな脅威だが、最も恐れるべきは魔獣の持つ不可思議な力だ。
 人里へおりてきては家畜や人を襲ってくる魔獣に対し、何の武装も持たない人々は対抗する術を持たない。例え武器を持っていたとしても、魔獣の使う魔法の前では、手も足も出ないのだ。
 村から町へ、町から街へ、平和は徐々に脅かされる。
 そうなる前に魔獣を狩り、駆逐する。
 オカリのいた場所は、そういうところだった。

「ツツジだって見たでしょう! あたしたちが戦ったのを!」
「そうですね。でも、僕ら魔術師から見れば、フリューゲルのしていた事は非難すべき事だ。魔獣はとても賢い獣です。駆除する相手じゃない。敬うべき存在なんですよ」

 生まれながらに魔法を使う、美しい獣。
 人里離れた場所に住み、決して人に従属する事も無く、群れを作る事もしない孤高の獣は、凶暴な見た目と裏腹に温厚な性格をしている。 普通に生活していれば野生の魔獣と会う事はまず無いし、何もしなければ魔獣のほうから危害を加えてくる事も無いのだ。

「だから、オカリさんが戦った魔獣だって、最初に何も無かったのならおとなしく元の棲みかに帰っていったはずなんです」
「じゃあ、どうしたら良かったって言うのよ……」
「……わかりません。けれど、少なくとも、フィラシエルでは魔獣と戦う必要は無いんです」

 ツツジの言葉に、オカリの眼から闘志が消えていく。
 オカリが落ち着いたのを確認して、ツツジは気を取り直すように笑顔を作った。

「行きましょうオカリさん。さっきの金色の魔獣、ビカーっていうんですけど、僕の知り合いなんですよ」
「知り合い? あんた頭狂ってる……」

 呟いて顔を顰めたオカリに、ツツジは苦笑する。

「まあまあ、そう言わず。ツキサに行くとき、途中まで送ってくれたのが、ビカーとスコさんなんですよ」
「送って、ですって?」

 繰り返したオカリは信じられない、と呟いて首を振った。
 どういう経緯なのかは知らないが、オカリにしてみれば魔獣と共存しているという状況そのものが到底信じがたい事だ。

「魔術師って変な奴らだと思ってたけど、ほんとあり得ない」

 魔術師の常識にショックを受けている様子のオカリの腕を引いて、ツツジは黄金色の魔獣が降り立った庭を目指した。


「スコさん!」

 マツラは男の名前を呼んだ。
 金色の魔獣の背からひらりと飛び降りた男は、にやりと笑ってマツラたちを見る。

「元気そうで何よりだ」
「そういう君たちも、元気そうだね」

 しげしげと金色の獣を眺めながら言うケムリに、スコは「そうでもねぇよ」と息を吐く。

「五老から呼ばれて、大急ぎでここまで来たんだぞ? 元気どころか、最高に疲れてんだよ。なあ、ビカー」

 自分の脇に立つ獣の首を叩くスコに、マツラは伺うように尋ねた。

「スコさんも、呼ばれたんですか」

 王宮の魔術師の後ろ姿を思い出す。彼女も、五老に呼ばれて来たと言っていた。
 五老は他にどんな人間を呼び寄せているのだろうか。
 召集された人たちの中には、リモのように好きで来た訳ではない人もたくさんいるに違いない。
 スコだって、他に何か用事があったのに慌ててダケ・コシへ来たのかもしれないのだ。
 しかし、はたから見たら乱暴気味にビカーの毛を撫でていたスコは、何でもない事だと頷き返した。

「ん? あぁ。俺は仕方ねぇよ。魔獣使いは一番足が速いだろ? 緊急時の伝達を引き受けるのは、爺さんたちより昔からの慣例だ」

 彼の隣ではビカーも同意するように低く喉を鳴らし、その動きにマツラは僅かに緊張する。
 マツラがスコとビカーに合うのはこれが二度目だった。
 嵐の晩に金色の獣と共に現れた彼を死神だと思った事が懐かしい。
 ビカーが人を襲ったりせず、自分に危害を加える事は無いと解っていても、どうしても身構えてしまう。
 口の中に並んだ鋭い牙は、見慣れない人間には十分に恐怖だ。
 だが当人たちはそんなマツラの様子は気にも留めていないようで、ケムリやラクトとも違う、ざっくりとした雰囲気の笑みのまま腕を組んでマツラを見下ろしてくる。

「嬢ちゃん、ちょっと雰囲気変わったな」

 僅かに目を細めたスコの声に、マツラは誘われるように彼を見上げた。
 大きな傷のある一見強面な顔の中で、薄い水色の双眸が懐かしむような色を湛えている。

「あの……そうですか?」

 返事に困ってケムリとラクトを見ればケムリも「そうだねぇ」と顎に手を当てているが、何か言ってくれる様子は無い。
 元から返事を期待していなかったらしいスコは軽く息を吐くと組んでいた腕を解く。

「まあ、魔王を倒そうってんだ。変わりもするだろうな」

 一人合点したように頷いたスコは、おもむろにラクトの方に向き直り表情を引き締めた。

「ところでラクト、お前さんがここにいるって事は、ツツジも戻って来てるんだろう? お前らが勢ぞろいしてて、なんでツツジだけいねぇんだ?」
「それは……」

 かつて彼がケムリのもとからツツジを連れて行った時、ケムリが強く反対した事はスコの記憶にしっかりと刻まれている。

「久しぶりに会う愛弟子を一人ほっとくような人じゃねぇよな? ケムリ・マリっつう師匠さんはよ」
「魔獣使い殿は意地が悪いなぁ」

 挑発するような口調に、ケムリは苦々しく笑う。スコの顔から笑みが消えた。

「これでもな、気にしちゃいたんだ。お前んとこからあのガキ連れて行った事。あいつ、どうしてんだ」

 鋭い眼がケムリとラクトを見る。
 どう説明したものかと目くばせをする二人と、困ったように彼らを見るマツラ。

「言えないのか?」

 追い打ちをかけるスコの言葉に、マツラは意を決して息を吸う。

「ツツジは」

 口を開きかけたとき、ビカーが大きく身じろぎして、低く唸り始めた。

「? どうした、ビカー」

 驚いた様子で相棒に声をかけるスコに、マツラはじわりと一歩後ずさる。
 喉を鳴らすのとは違う、凶暴な唸り声にケムリとラクトも警戒するように身構えた。

「おい、落着けよ」

 スコの声を無視して、ビカーは身体を低く構えたまま、マツラたちの後ろを睨みつけて唸り続ける。
 黄金色の視線を追った先には、こわばった顔で立つツツジとオカリがいた。

「ツツジ、オカリちゃん……」

 どうして二人がビカーに威嚇されているのだろう。
 驚いたマツラたちが二人とビカーを見比べていると、スコがオカリを睨んだ。

「おいツツジ、その嬢ちゃんは何者だ」

 警戒の込められた低い声に、ツツジはスコを見ながら、ぎこちなく口を開いた。

「彼女、は……」

 つまづく声に、スコは渋い顔で続きを待つ。
 自分の友である魔獣がツツジを怯えさせているのは明白だ。
 いくら以前会った事はあると言え、威嚇する魔獣の姿を恐ろしいと感じるのは正常な反応だ。
 ツツジ自身も、前に会った時は自分を背に乗せて走ったビカーが威嚇してくるとは思っていなかったはすだ。

 「オカリさん、は、グランディスから来た……」
「よし、ツツジ。わかった、もういい。そいつがグランディスから来たってんなら話は早い」

 たどたどしく続いた言葉を遮ったスコは、ビカーの身体に手を添えたまま、オカリに視線を据え置く。

「嬢ちゃん、お前さん国で何をしてきた?」

 問いかけに、一瞬だけオカリの眼が揺れたが、彼女の答えを待つことなく、スコはビカーの身体を一度叩いた。

「こいつが、言ってんだ。あんたから血の匂いがするってな。隠したって隠せねぇ、仲間の匂いだ。消しても消えない、魔獣の血の匂いがぷんぷんするってよ」

 オカリの顔から血の気が引いた。
 それだけで十分な答えになる。

「あんた、魔獣を殺したな? それもつい最近だ」

 確信と怒りの込められた言葉にオカリは唇を噛み、ツツジとラクトは気まずく目線を逸らした。
 口元に手を当ててオカリを見つめたマツラは、ケムリが「そういう事か」と呟くのを聞いた。
 師の言葉に、オカリと初めて会った時の事を思い出す。
 彼女はひどい怪我を負っていた。負傷の理由を尋ねる事が憚られ、そのままになっていたが、あの怪我の原因は。

「もしかして、ここに来た時の怪我って……」
「魔獣にやられたわ」

 はっきりとした声で答えたオカリは、地面を踏みしめるように立ってスコを見る。
 受けて立つ、と言わんばかりのオカリの姿には、やはり妙な威圧感があった。

「でも、どうしてあなたにそれがわかるの? あたしがグランディスで魔獣狩りに行った事は、ツツジとラクト、そして五老しか知らないはずよ」

 五老も知ってるのか、とぼやいて、スコは当然だと言わんばかりに口元に挑発する笑みを浮かべた。

「魔獣使いを甘く見るな。―――とはいえ、グランディスのお嬢ちゃんは何も知らねぇんだろうけどな」

 彼の言葉に、オカリの目に怒りに似た反感の感情が浮かんだ。