味方か敵か

 本来ならまだ試験中のはずの廊下は、騒ぎを聞きつけたのか、はたまた呼び出されたのか数人の魔術師が何か話し合っていた。
 黒のローブ、およびマントは上位魔術師の証だ。
 彼らが講堂から出てきた自分を不審そうに見ているのに気付き、マツラは慌ててフードを被る。
 無駄な抵抗かもしれないが、これ以上無駄な騒ぎを起こさないためにも、誰かに自分の目を見られるのを防ぎたかった。
 と、その後ろから同じく黒いローブを羽織った女性が速足でこちらへ向かってくる。

「マツラ・ワカね」

 初老の女性は、低い声で確認すると、少し身を屈めマツラのフードの中をのぞき込む。
 その茶色い目が驚きに見開かれ、感嘆の声を漏らした彼女は姿勢を正す。

「ほんとうに、春の森の色だわ。聞いていたとおり、とてもきれいな色。私は火の五老ニチ様に仕えている者です。人からは火の秘書と呼ばれています」

 手短な自己紹介をして、ちらりと廊下の魔術師たちを見てから秘書と名乗った魔術師はマツラに背を向けて歩き始める。

「行きましょう。五老がお待ちです。それと……ケムリもね」

 前触れ無く出された師の名前に、マツラは一瞬息を止めた。
 人には見られないほうがいいと言われた緑の目を、他の受験者の前で晒してしまったことや、暴力的な魔法を使ってしまったことが次々と頭をかすめていく。
 果たして、師匠はどう思っているのだろう。
 たまらず前を歩く火の秘書という魔術師に問いかけてしまった。

「師匠は、何と……?」
「それは試験の事? あなたが魔法を使った事? それとも、魔王が現れた事について?」

 そのどれもだ。
 他に、周りにマツラの緑眼がしっかり見られてしまった事も。
 何もかもが悪い方向に向かっているようで、気分が落ち着かない。
 前を向いたままの火の秘書に、マツラは声を落として答える。

「私、何もしない方が良かったんでしょうか……?」
「何が起こったのか、詳細を見ていない私がそれに答える事はできないわ。ケムリか五老にお尋ねした方がいいでしょう。……マツラ、落ち着きなさいな」

 不安なのも、焦っているのも、あなただけではないのだから。

 そう言った彼女の口調は、修行を始めたばかりの頃にマツラを励ましてくれたケムリの妻にどこか似ていて胸が苦しくなった。
 早く、あの森の中の優しい家に帰りたい。
 無事に試験を終えてきました、と報告して日常に戻りたい。
 俯いて黙ったマツラに、先を歩いていた火の秘書は見兼ねたようにゆっくりと口を開く。

「私はね、生まれ変わりは信じない。だから、あなたがかのミウ・ナカサの生まれ変わりだ等と馬鹿げた事は言わないし、そのように振舞えとも言いません。けれど、あなたがミウである事を求める人は必ず出てくるでしょうね」

 伝説の魔法使い、ミウ・ナカサが封印したとされる魔王が復活した以上、それは避けては通れない。
 緑眼は有り得ないもの、伝説の魔術師のみに許されたものだったのだ。

 ―――マツラが現れるまでは。

 けれど、マツラがダケ・コシ本山にやって来て、魔王が現れた。
 緑眼の魔法使いと魔王が揃ったと聞いて、伝説の魔法使いと魔王の戦いを思い出さない魔術師はまずいない。
 魔術師たちにとって、ミウと同じ緑眼はどれほど渇望し求めても諦めざるを得ないものだったのだから。

「マツラ、あなたは覚悟しなければならないと思うわ。強い意志を持たないと望まぬ方向に流されてしまうかもしれない」
「覚悟、ですか……」

 噛み締めるように繰り返した言葉に、マツラの気持ちは重くなる。
 人生最大の決断だと、覚悟を決めて魔術師になる事にしてからまだ一年も経っていない。

 村で一番の刺繍の手を持ち、それを一生の仕事として生きていくのだと思っていた。
 マツラが作る刺繍の評判は、倍以上年齢の離れたベテランにも勝っていた。
 自分の腕が家を支えているのだという自負もあったし、稼ぐためならどれだけでも針を刺していくつもりだった。
 細々と、けれど順調だと思っていた。

 魔術師になる事を勧められ、これまで積み重ねてきたものを全部捨てて師のもとに来た。
 納品をやめる事は、信用と信頼までも捨てた事になる。
 魔術師を志す事にしたマツラは、もう以前の生活に戻る事は許されなかった。

 あれ以上の覚悟を決める事など、マツラには想像もできない。
 先が見えない今は、これから一体何が起こるのかという不安だけが募っていく。

 何度か角を曲がり、渡り廊下を越えた扉の前で立ち止まった火の秘書は数秒マツラを見つめると静かに告げた。

「中で五老がお待ちです」

 ゆっくりとした動作で扉を開け、入るように促す。
 マツラが部屋に踏み込むと、扉は呆気なく閉められてしまった。

 部屋は広く、長く大きなテーブルに水の五老スイとさっきの老婆が座っていた。
 やはり彼女が火の五老ニチなのだと確信して、テーブルに座っている他の三人を見る。
 その一人がどう見てもまだ十歳程度の子供だった事に驚いて、マツラは思わず彼を凝視した。

 さっきの火の秘書は、この部屋に五老がいると言った。
 つまりこの子供を含む、この五人が魔術師たちの最高指導者“五人の老魔術師”なのだ。

 並んで座る彼らの向かいには、マツラの師ケムリが大きな身体を縮めるようにして座っている。
 六人の視線がマツラに集中し、立ちすくんだマツラに、五人のうち一人、どこか影の薄い男性が座るように声をかけた。
 ケムリの隣の席にマツラが座るのを待って、老婆が口を開く。

「さて、マツラも来た事だし話を始めようか。結論から言うと、ついさっき、魔王が下位の昇位試験会場に現れた。喜びな、ケムリ。あんたの弟子は奴を撃退してくれたよ」

 にやりと笑った彼女の言葉にケムリがマツラを振り返る。
 驚きに満ちた顔を向けてきたその反応に、彼は何も知らずこの部屋に呼ばれたのだと悟り、マツラは硬い表情のまま肯定の意味を込めて頷いた。
 マツラは自分の口で状況を説明したかったが、今はそれを話す時ではないのも明らかだった。
 代わりにケムリが質問を投げた。

「ニチ様、マツラの魔法で怪我をした人はいませんでしたか?」
「無いね」
「それは良かった」

 短い答えに、ケムリは明らかにほっとしたように胸を撫で下ろしたが、その視線は少しの嘘も見逃すまいとするようにニチに固定されたままだ。

「しかし、その魔王とやらは本当に本物でしょうか?」

 その疑問はマツラも感じていた事だった。
 あの乱入が五老の予定外の事だったとしても、なぜ彼が本当に魔王だと断言できるのだろう。
 魔王を騙る偽物の可能性だってじゅうぶんにあるはずなのに。
 しかしニチは強い口調で「勿論だ」と頷く。

「あれは本物だよ。現に私らですら太刀打ちできなかった。あの場で、どんな他者の影響も受けずに立っていられたのは自分だけだったと、気付かなかったのかい、マツラ」

 全く感じなかった事象を指摘され、固まったマツラに追い打ちをかけるように口を挟んできたのは生意気そうな少年だった。

「偽物なわけない。フウの予知で魔王の復活が近い事はわかってたんだから!」
「ただ、思ったよりもかなり早かったかな。もう少し先だと思っていたんだけど」
「もっと寝てろってんだよ、魔王め!」

 子供特有の高い声にマツラの視線は自然とそちらを向く。
 少年の隣で頷いた、影の薄い男性が風の五老フウらしい。
 五老は襲名制でその名前と共に与えられた役割を受け継いできたという。
 だから、彼らの顔や姿を知らないマツラでも名前を聞けば相手がどの属性を司る五老なのかを知る事はできた。

 油断をしていたのは自分たちだった。
 そう唸って腕を組んだのは枯れ枝を思わせる老爺だ。

「だもんでな、偽物の可能性は限りなく低い。奴の復活前に手を打とうと思っていたがなあ……封印の場所も探していたが、なかなか結果も出ないときた。せめてマツラが一人前になるまでは眠っていて欲しかったもんじゃが」
「え?」

 どうして、そこで自分の名前が出てくるのだろう?
 急に名前を呼ばれ瞬きを繰り返すマツラに、さも当然といわんばかりに五老は口々に言う。

「魔王を倒せるのは、魔王を封印したと言われる伝説の魔法使いと同じ力を持つお前さんだけだ」
「上位魔術師が何人束になっても魔王には勝てないんだよ。例えそれが五老であってもね。悔しい事に、それが今回証明されちまった」
「不甲斐ない事だけれど、私たちは魔王に立ち向かうどころか、立ち上がる事さえできなかったわ」
「最強の魔法使いでも封印をする事しかできなかった相手だ。普通の魔術師では無理なんだ」

 普通では無理だ、と締めくくった風の五老の言葉がマツラの胸のカツンと当たる。
 彼の言い方は、マツラが普通ではないと断言しているようだ。
 マツラ自身、確かに心当たりはあるが、面と向かって言われると否定したくなる。

 私は、ついこの間まで"普通"だったのに。

「逆にお前以外にだれがいるんだ?」

 場違いに元気な声で放たれた子供の声に、マツラは膝の上で手を握りしめた。
 冗談じゃない。断らないと。
 数ヶ月前まで魔術師ですらなかったのに、そんな事できる訳がない。
 出来ない仕事は、受けるものじゃない。

「お言葉ですが、本気とは思えません。あの場にいた他の初級魔術師たちよりも私のほうが未熟な可能性だってあります」

 魔法を使おうと思っても不発に終わるか、暴走して思った以上の規模の事をやらかしてしまう。
 さっきだって、もっとうまくやれば講堂内を荒らすことなく何とかできたはずなのに。
 まともに術を使えない魔術師が魔王退治だなんて、笑い話もいいところだ。
 しかし、ニチはすっぱりとマツラの言葉を否定する。

「本気だとは思えないのはアンタだよ、マツラ」

 鋭い視線がマツラを捉えて追い詰めてゆく。
 射抜くような眼に思わず唾を飲んだマツラに向かって、小柄な老婆は全てお見通しだと口元を歪めた。

「緑眼を持っていて、ついでに全部の精霊と契約した。そんな化け物、あんたの他に居やしないよ」

 お前は化け物だ。

 その言葉を選んだ火の五老は、逃がさないと言うように、にやりと笑った。