招かれざる客、その名は

 鋭い音を立てて、大講堂の窓が砕け散った。
 響いた悲鳴に誘われるようになだれ込んできた冷たい外気が、異常な速さで室内の気温を下げる。
 突然身体がずしりと重くなったような感覚に襲われた次の瞬間、マツラの周りで整列していた若い魔術師たちが、次々に床に倒れてゆく。

 折しも、下位魔術師への昇位試験が始まろうとした瞬間だった。
 これもその一環かもしれない。
それならば、突然の異変も納得がいく。
 しかし、そう思いながらマツラが目をやった先、横一列に並んでいた試験官の魔術師たちまでもが、顔をしかめて膝を折っていた。
 気付けば講堂内で立っているのはマツラひとりきりで、周囲のうめき声を聞きながら、流石にこれは試験ではなさそうだ、と頭の中で警鐘が鳴りはじめる。
どうしていいのかわからず、呆然と立ち尽くす耳に、足下から絞り出すような声が聞こえた。

「つ、潰される……」

 見知らぬ魔術師の少年の苦しげな声に、ぞわりと背筋が粟だった。
 講堂の床は倒れた初級魔術師たちのマントで朱色に染められている。
 まるで床の上を炎が這っているような光景はどこか不吉としか言いようがなく、マツラは確信した。

 これは、絶対に試験じゃない。

 自分以外の全員が、何らかの力で床にねじ伏せられている。
 どうやらそれは、マツラにも少しの影響を与えているようで、身体が床に引っ張られるような重さを帯びている。

 言いようのない不安に手を握りしめたとき、マツラは試験官の一人が強い視線で部屋の後方を睨んでいるのに気が付いた。
 何があるのかと、つられるようにその視線の先を振り返ると、割れた高窓を背に、その男は空中に立っていた。

 不敵な笑みを浮かべる男の顔は、マツラが今までに出会ったどんな人よりも整った顔立ちをしている。
 長い黒髪が、外から入ってくる冷気に柔らかくなびき、夏の空のような、はっきりとした水色の目が、まっすぐにマツラを見ていた。
 床に倒れた大勢の初級魔術師たちや試験官とは反対に、悠々と宙に立ちながら。

 まるで呪いでもかけられたように、男から目をそらす事ができない。
 男の顔をしっかり確かめたいのに、視界を遮るフードが邪魔だ。
 胸がどきどきと速く脈うつ。
 それは彼の容姿のせいだろうか。それとも、周囲の異変のせいだろうか。
 どちらにしろ、今の状況の原因がこの男である事は間違いない。
 そうでなければ、なぜこの場で笑ってなどいられるだろう。床に伏している彼らを、見下ろす事ができるだろう。

「……あなたが、やったんですか」

 目を逸らさぬまま、意を決して出した声は強ばっていた。
 元々、マツラは人前で目立つ事をするようなタイプではない。
 視線が自分に集中するのを感じながら、ありったけの勇気をかき集めて、マツラは一歩踏み出した。
 高い位置にいる男をしっかりと見上げる。
 わずかに口元を歪めた彼の瞳に、面白そうな光が宿ったように見えた。

 やばい。

 頭の中で警告する自分の声が聞こえる。
 しかし一歩踏み出した以上はもう引けない。

「あなた、何者?」

 昇位試験の、しかもなぜか下級の会場に乗り込み、受験者だけでなく試験官の上位魔術師たちすら跪かせた。
 そんな実力者はそうそういない。
 それに、魔術師昇位試験は年に一回の行事だ。
 ぶち壊そうとするような魔術師など、まずいない。
 例えそれが初級魔術師や下位魔術師のような下っ端であろうと、受験者は皆必死なのだと知っているから。

 もちろんマツラもそうだ。
 人より遅すぎるスタートをきり、下位の昇位試験受験者を年齢別に分けるなら、年長のほうに入る。
 なんと言われようと、今回の試験で合格しなければならないのだ。
 来年まで待つなんて、悠長な事は言っていられない。
 訳のわからない男の乱入で、試験そのものをおじゃんにされてるなんて、まっぴらごめんだ。

 敵意を込めてみつめれば、男はおもむろに口を開いた。

「おまえが、マツラか」

 耳に心地良い響きで、男の声が確認するようにマツラの名を呼ぶ。
 どきり、と胸が跳ねた。
 この男は自分の事を知っている?
 わずかな疑問が胸をかすめる。
 マツラは男を知らない。見惚れるような色男だ。一度会えば忘れるなんてありえない。
 自分だけが一方的に、しかもこんな得体の知れない男に知られている、という状況は気持ちが悪い。

「……あなた、誰?」

 慎重に返した問いを聞いた男は、パチンと一度指を鳴らした。
 瞬間、マツラの周囲に突風が起こり、被っていたフードをさらっていく。
 開けた視界は明るく、呆然と見上げた男は、満足げな笑みでマツラを見下ろしている。

「緑眼の娘。やはり、その瞳は美しい」

 男の言葉と同時、講堂にざわめきが広がる。
 見られてしまった。
 もうフードを被っても、顔を隠しても間に合わない。

「ごめんなさい、師匠。私も不本意だけど、もう手遅れみたいです」

 小さく呟いた声は、男にも、また周りの受験者たちにも聞こえなかったようだった。
 周囲のざわめきの中に「本当に緑眼だ」とか「ミウ・ナカサの」という単語が聞こえてマツラの気分は重くなる。

 私は、そんなたいそうな力は持っていない。

 叫びたい言葉を飲み込みこんで、唇を噛み男を見上げた。

「何が言いたいんです」

 自分の緑の瞳を周りに晒す事が、彼の目的だったのだろうか。
 試験に向けて修行の地を出発した時、師に言われた言葉が思い出される。

 きみがまだ未熟なうちは、他の魔術師たちに緑眼の存在を知られないほうがいい。だから、人前であまり目元を晒してはいけないよ。
 目立ちたくないのなら、特にね。

 気を付けていたはずなのに、不審者のせいでそれも水の泡になってしまった。
 口を結んで不機嫌もあらわに男を見るマツラに、彼はすいと手を差し出してきた。

「マツラ、俺と共に来い。ここは、お前には似合わない」
「は?」

 予想しなかった突拍子もない言葉に、めいいっぱい目を見開いたマツラは改めて男を凝視する。

 この人は急に何を言い出しているんだ。
 いくら美形のイケメンとはいえ、見ず知らずの不審者に、自分がついてくるとでも思っているのか。
 それとも私は、この手を取るべきなのか?
 でも、何のために?

 男の誘いと、次々と浮かんでくる疑問に固まっていると、背後から声が響いた。

「マツラ! そいつをぶっ飛ばしな!!」

 はりのある老婆の声に、マツラは弾かれたように魔法媒介である糸の束に手を伸ばす。
 声の主をちらりと振り返れば、さっき男を睨んでいた試験官だった。
 男は、老婆とマツラを交互に見やって、にやりと笑う。

「攻撃してくるか?」
「みんなに何をしたんですか。早くやめてくれないと、どうなるか知りませんから」
「脅しか?」
「脅しじゃ、ありません!」

 まるで拘束が解けたように、言葉を出す口が軽い。
 愉快そうな男に腹が立ち、マツラは糸束を持つ手に力を込めた。
 脅しでも、はったりでもない。
 何が起こるかわからない。
 マツラの魔法は、時に彼女自身でも制御できない不安定なものだ。

 精霊に出す指示をしっかりと確定させろと言われた。
 時間をかければ可能だが、まだ慣れないマツラに短時間でそれは難しい。
 こういう、焦っている時は余計にだ。

 糸が緑の光を帯びる。
 自分を見る他の受験者たちが息を飲み、講堂内が一気に緊張したのを感じた。
 どうか、彼らに被害が及びませんように。
 それだけを願い、マツラは男を見つめ、ちらりと試験官の老婆に目配せした。
 大丈夫だと言うように力強く頷いた老婆に意を決して、マツラははっきりと言い放つ。

「帰ってくださいっ!!」

 マツラの周囲に風が生まれ、彼女の周りで倒れていた受験者のマントをはためかせた。彼女の周りの冷気が固まり、見えない刃を形成する。
 徐々に勢いを増した風は冷気の刃を宙に巻き上げ、室内を駆け抜ける。
 男は頭を庇うように腕をあげ、舌を打った。

「扱いが雑すぎるぞマツラ! それでも緑眼の娘か!!」
「名前も名乗らないような人に言われたくありません!」

 雑だと評した彼の言葉は的確だった。
 だからと言って話題をすり替えるのもどうかと思ったが、マツラには他に言い返す言葉が見つからない。
 もっと技術があれば、彼だけに攻撃を当てる事ができただろう。しかし、今のマツラはこの講堂全体を巻き込んでの術しか使えなかった。
 冷たい空気の刃が部屋の上へ昇ってゆく事だけが今の救いだ。
 床に伏している彼らを傷つけることは、おそらく無い。

 マツラの言葉に一瞬小さく目を見開いた男は、やはり愉快そうに笑って腕を一閃させた。
 マツラの起こした風がぴたりと止み、一転静寂が訪れる。

「そうか、名を名乗れと。この、俺に」

 男の声は、冷えた講堂の中で気持ちいいほどよく響いた。
 青ざめた顔の初級魔術たちと、試験官の上位魔術師、そして最後にマツラを見て、男は口元だけで笑う。

「我が名はケイ」

 まるで世界から音を消し去ったような無音の中、男の声だけが響く。
 誰かが、息を飲んだ音が聞こえたような気がした。あるいは、悲鳴も。しかしそれらは、不自然な静寂に吸い込まれてしまう。
 マツラは指一本動かせず、息を吸うのも忘れて、自分を見下ろす男を食い入るように見つめた。

「魔王、ケイ・オレンだ。忘れるな、マツラ」

 ぱちんとひとつ、自らを魔王と名乗った男が指を鳴らす。
 同時にその姿は黒い羽毛になり四散し、世界に音が戻ってきた。

 ざわめきが、頭に響く。
 刺さる視線が、ちりちりと痛い。

 自称魔王の目的が何であれ、初級魔術師にあるまじき事をしてしまった。

 手に握りしめた糸束に目を落として、マツラは知らず溜息をついた。