序 あるグルメな門番のはなし

 カップからたちのぼる芳醇な香り。
 その隣の皿の上には、赤く艶やかなイチゴがふんだんに乗せられたタルトがあった。
 ダケ・コシ本山第一門番のソシルは、傍目にも幸せそうな表情でフォークを手にとると、イチゴをひとつ、口に入れる。
 柔らかく繊細な果実を噛み潰せば、甘酸っぱく爽やかな味が口の中いっぱいに広がり、ほんの少しくっついていたクリームが口の中に広がった果汁にひとつ華を添えた。

 自分の口の中には、今幸せが満ちている。

 味わいながら飲み込む赤い実に続いて、その下のタルト生地にフォークを入れる。
 イチゴの下には、クリームとベリーのソースが隠れていた。
 サクサクのタルト生地をフォークで割り、クリームと共に口に運ぶ。
 香ばしい生地と甘いクリームと、あまずっぱいソースが絶妙なハーモニーを奏で、彼は自分の頬が緩むのを感じた。

 スイーツには、幸せの魔法がかかっている。
 豪勢な食事もまた然り。

 なんだかんだで上位魔術師の資格を取り、門番の任を与えられてはいるが、彼はできる事ならば世界中の甘味を食べて歩きたいと思っていたし、世界中の美味なる食事を食べて回りたいと思っていた。
 贅沢は言わない。
 せめて、この国のあらゆる食があつまるヅキ=カンナでもいい。

「王都滞在の任務、来ないかなぁ」

 ため息と共に呟くが、門番という専門職にいる以上厳しいだろう。
 王都にある常設移動魔法陣の門番は、赴任してまだ日が浅い。勤務地交代は余程の事が無い限りないだろう。

 そんな事を考えながら、休憩は終了だと重たい腰をあげた時、ドアを叩く音がした。
 外には休憩中を示す札がかかっていたはず。
 文字も読めないバカはどこのどいつだと、しばしの無視を決めて食器を洗おうとしたところで、明らかに何かを破壊した音がして騒々しい声が乱入してきた。

「ソシル! 午後のお茶はもう終わりだ!!」

 室内にも関わらず、考えなしの声量で響いた声に、思わず顔をしかめる。
 久々に聞いた声の主は、今はダケ・コシを離れてどこぞの山の中に住んでいたはずだが、どうやら帰ってきたらしい。

「どこの馬鹿かと思ったら、君か!! ケムリ、ドアにかかっていた札は見えなかったのか!?」

 振り向けば、吹っ飛ばされたドアが床に倒れている。
 これを修理するのは、間違いなく自分だ。
 元から筋肉馬鹿な男だと思ってはいたが、まさか平然とドアを破壊する筋肉馬鹿になっていたとは、同期ながら頭が痛い。

「なんて事するんだよ! カル・デイラなんて山の奥に行ったから、自分も熊になったんじゃないか!?」
「少し力を入れすぎただけだ。次はもっと丈夫に作らないと、本物の熊の襲撃には耐えられないぞ?」

 大げさに肩をすくめて見せたケムリの、日に焼けた顔にめまいがしそうだった。
 一刻も早くこいつを本山に送らないと、不毛な会話が続く事になりそうだ。

「もういい。門を開けよう。せめて次は、ドアにも優しくして欲しいね」

 ほんの少し棘を含ませて言ったところで、ケムリの後ろに静かに立つ小柄な少女に気がついた。
 深くかぶったフードと繋がる朱色のケープは、裾に細やかな刺繍が施されている。それを止める魔術師証を見るに、彼女が初級魔術師なのは間違いない。
 そこでふと、ソシルはケムリの弟子の事を思い出した。

「君の弟子、女の子だったっけ?」

 前に会ったとき連れていたのは、繊細な顔立ちの少年だったような気がする。
 その子供も、確か去年の昇位試験で下位魔術師になったはずだ。

「ツツジは、今回の試験は受けないよ。この子はマツラ。少し前に僕が預かることになってね。今回の昇位試験を受けるんだ」
「へぇ……よく君みたいな筋肉馬鹿のところに、女の子が来たもんだ」

 まるで猟師のような見た目の師匠に、拠点は山の中だ。
 前に連れていた弟子も、明らかに大人しそうだったから驚いたが、まさかそこに年頃の少女も追加されるとは、驚きを隠せない。

「マツラちゃん? ケムリに筋トレとプロテインを強要されたら、断っていいからな」

 冗談めかしてそう声をかければ、朱色のフードを被ったままの頭が小さく揺れた。

「師匠の筋肉に憧れているのは、ツツジのほうですから」

 笑いを含んだ落ち着いた声は、申し訳なさそうに続ける。

「ドア、すみませんでした。壊しちゃって」
「……一応言っておくけど、弟子の君が気にする事じゃないからね? 君はケムリのやった事を気にするよりも、試験のほうに集中しないと。受験申し込みは今日までだ。未来ある若い魔術師のために、ダケ・コシへの道を開けよう」

 常設移動魔法陣、通称「門」。
 その通行管理をするソシルたちは門番と呼ばれる。
 彼が管理する門は、魔術師の総本山ダケ・コシに直通するため、人通りが多い場所だ。
 特に今は年に一度の魔術師昇位試験の直前とあって、受験希望者で平時よりも送る人数が格段に多い。

 ケムリとマツラを連れ、薄暗い門の部屋に案内し、ソシルはナイフとフォークを取り出した。
 彼の魔法媒介は、ひと揃いの食器セットの中から抜き取られたこの二本だった。

「今から願書を出すんなら、中央門が一番近い。行き先は中央門にしておこう」

 確認すると、「頼む」とケムリが頷いた。
 顔の高さに持ち上げたナイフとフォークを軽く打ちつける。

 

「行ってらっしゃい」

 石の壁に金属のぶつかる音が小さく響いて、床に光る図形が現れた。
 どうやら移動魔法陣は初めてらしいマツラが、驚いたような仕草で足下を見た拍子に、彼女がかぶっていたフードが脱げる。

「床が!」

 そう言ってマツラはケムリを見上げる。
 床からの光に照らされた、まだ子供っぽさの残る顔には、予想どおり驚きが満ちていた。
 初めて門を使う人間の反応は、いつ見てもおもしろい。
 よく見慣れた光景に、ソシルはこの時気が付いた。

 驚きに見開かれたマツラの、光を受けてきらきら光る瞳。
 新緑の木々から色をもってきて硝子玉に封じ込めたような、鮮やかな緑色に、ソシルは我が目を疑う。

 その瞬間、ケムリが明らかに「しまった」という顔をしたのを見た。
 理由を問い詰めようにも、門はもう動き出している。
 ソシルがとっさに言葉を放つよりも先に、魔法陣の中の二人の姿は消えてしまった。

 光が消え薄暗さの戻ってきた室内で、呆然と立ち尽くしたソシルは、小さな声で呟いた。

「緑眼の、魔術師……」

 信じられない、と続いた声は思ったよりも掠れていた。

 今送り出したケムリの弟子は間違いなく新緑を宿していた。
 最強と呼ばれる、古い言い伝えの魔術師ミウ・ナカサが宿していたとされる新緑の瞳、緑眼。
 鮮やかな新緑は、魔術師に力を与える生命の色だ。
 故に、その色を身体に宿していたミウは最強だったと考えられている。
 彼女以前にも、そして以降にも緑眼を持つ人間の記録はどこにもなく、だからこそ、緑眼は言い伝えの中にしか存在しないと誰もが思っていた。
 しかしまさに今、その瞳を持つ魔術師の卵が現れ、本山へ向かった。

「おいおい、昔話の再演でもやろうっていうんじゃないだろうな」

 興奮気味に呟いた声は、石造りの壁に吸い込まれるようにして消えた。

 そして数日後、滅多に当たらない彼の予感は珍しく現実となった。