溶けるくれないと廻る流れ
視界が水に沈む直前、ツツジは視界の隅にオカリの姿を見たような気がした。
陽光を反射する、不揃いな金の髪。
彼の名前を呼ぶ声は、こもった水に蓋をされて最後まで聞き取ることはできなかった。
苦しい。痛い。焼けるように、腕が脈打つように痛い。苦しい。息ができない。
腕からは赤い血が流れ出し、ツツジの周囲の水を染めてゆく。
痛みと苦しさにもがくツツジの口から、空気の泡が出ていった。
早く空気を吸わないと。早く、血を止めないと。
さもなければ、死んでしまう。
こんな怪我をして池なんかに浸かったら、死んでしまう。
早く止血して、手当をしないと。
何かの菌にでも感染したら、腕ごと壊死してしまうかもしれない。
それより先に、血が出すぎて死んでしまう。腕より先に、自分が死んでしまう。
冷たい水の中で、水面を目指すツツジは必死にもがく。
まとわりつく服が、動きを封じてくる。耐えがたい腕の痛みは、水面を目指す動きすらも躊躇わせた。
早く、早く、早くしないと。
紅い水が尽きる前に。
全てが流れ出してしまうより先に。
パニックに陥ったまま、冷静さを欠いた頭の中でひたすら叫ぶ。
止まれ、止まれ、血よ止まれ! 痛みよ消えろ! 消えて無くなれ! 元に戻れ!
自分の血と池の水、自分の涙と周囲の水。
どれの境界もが曖昧になっていく中で、精霊は見捨てないというスイの言葉を信じるしかない彼には、他の方法が思い浮かばなかった。
魔法を使わなければいけない。
たとえ見よう見まねだとしても、この腕の血を止め、傷口を癒す魔法を使わないといけない。
けれど、どうやって?
血が止まり、傷が塞がっていくという、自分の身体が意志とは関係なく行う現象を、細かに想像する事ができない。
想像し、指示しなければ、魔法は形を成さない。赤い水は、どんどん流れ出てゆく。
そう思った瞬間、ツツジははっとした。
だから、スイにはできたのだと、初めて気づく。
彼女は、何度も見たのだ。
自分で切った傷が治ってゆく様を、何度も何度も、繰り返し、幾度となく、見てきた。
血が止まり、傷が塞がる課程を数え切れないほど見てきたからこそ、彼女はこの治療術を会得できた。
圧倒的な経験値の差に、ツツジは気が遠くなるような気がした。
それは錯覚でもなんでもない。
止められた呼吸と鋭く激しい腕の痛みは、彼から確実に体力と意識を奪ってゆく。
意識の境界すら曖昧になっていく中でツツジは、とにかく思う事しかできなかった。
痛みよ消えろ、消えて無くなれ。傷よ塞がれ。元に戻れ。
けれど、明確ではない指示と遠くなる意識では魔法は成立しない。
そうこうしている間に、時間は期限を迎える。
ツツジは最後の息を吐き出した。
赤く染められる水中を見ていた視界は、水にインクを溶かすように、するりと黒く塗りつぶされる。
痛みすらも遠くに霞んでいく中、ツツジは自分に向かって語りかける声を聞いた。
「元には戻らないよ。治療術は元に戻す魔法じゃない。やみくもに思ったって、なにも治りやしない。そうさね、まずは溢れる紅を意識しないと。失われていく自分の水を想うんだよ。失われた水が、別の物から注ぎ足されて補われていく事を、認識しないと」
少し低い女の声は、すぐそばで語りかけられるような響きで、水に塞がれたツツジの耳にも鮮明に届いた。
「治療術を元に戻す魔法だと思ってる間は、いつまでたっても治療術なんて使えやしないよ。まったく、とんだおばかさんだね」
その言葉は、オカリの口癖だ。
彼女とは全く違う声で耳に響いた言葉に、ツツジは意識を引っ張られる。
痛みも苦しみも遠いけれど、ただ思考だけは明確に戻ってきた。
語りかけてくる女の声は、ツツジの中の暗闇に確かな光を灯した。
元に戻したいんじゃない。繰り返したくないのだ。
オカリを、二度とあんな目に遭わせないために。
マツラを、彼女と同じ状況にさせないために。
熱い風に煽られた森で、何の手当もできなかった。
無力を見せつけられたあの日の後悔を、後悔で終わらせたくない。
「僕は、あの夜を繰り返さないために、治療術を身につけたいんです!」
知らず口にした声は、果たして音になっていたのだろうか?
疑問を感じる前に、女の声は頷いた。
「想いがあるのなら、きみはそれに向かってゆくだけじゃあないか。簡単な事だよ」
どういう訳か、彼女の姿は影も形も見てないのに、確かに頷いたのだとわかる。
彼女は、優しく続けた。
「目をあけなさい、ツツジ・ナハ。きみの魔法が流れる世界を、その目で見たまえ」
ふわりと頬を撫でられた。
次にツツジの周囲の冷たい水、あるいは空気が温度をあげる。
呼吸は封じられているはずなのに、苦しさがどこかへ消え、スイに切られた腕の痛みも無くなった。
促されるままにゆっくりと目を開ければ、水中の浮遊感はそのままに、あたりは闇に包まれていた。
首を巡らせると、輝く水面であるはずの場所には、満天の星空が広がっている。
敷きつめたようにきらめく光は、きりりと冷たい冬の星空だ。
空気の温度のせいか、はたまた研ぎ済まされた無数の光のせいか、背筋が凍るような美しい空。
視界いっぱいに広がる空の上、ちらちらとまたたく星々の間でいくつかの星が流れた。
言葉をなくして見入っていると、やがて光はぶれて滲み、きらめく星はぼやけてゆく。
それらは、かつてツツジが見ていた星空だった。
光がぼやけたのは、ツツジの視力が落ちたからに他ならない。
鮮明だった世界は、今や眼鏡無しではおぼろげな輪郭しか見ることはできない。星空となればもっとひどく、空の光は闇に溶けて消えてしまった。
知識を得る代わりに、素の眼で見ていた美しくきらめく世界を失った。
レンズ越しに再び得た光が、過去を再現するように目の前でまたにじんでいく。
いやだ、僕はこの光を見ていたい。
美しく光る夜の空をずっと眺めていたかったんだ。
飽きるまで、追いつくまで、この星を追っていたいんだ。
まだ、見ていたいんだ。
だからどうか、この光を取り上げないで。
声にならない叫びは、この不思議な世界を支配している声の主に届いたようだった。
全部聞こえていたと言わんばかりに、彼女は答える。
「わたしは取り上げた訳じゃあないよ。レンズがあろうと無かろうと、この空はいつだってきみの目の前に広がっているんだからね。きみが見ようと思えば、水のむこうの星空は簡単に見れるんだ。だってここは、水の中」
――他でもない、きみのフィールドだよ。
その瞬間、ぼやけた無数の光が急速に鮮明さを取り戻す。
焦点の合った暗い空間で、ツツジは自分の周りの水が固まるのを感じた。
姿の見えない女の声は、笑うように話しかけてくる。
「硝子越しの世界は味気ないだろう? わたしはこっちのレンズのほうが好みさね。世界をみつめる事のできるレンズの見え心地はいかがかな?」
同時にツツジの周囲を染めてゆく血が止まり、代わりに自分の身体に流れ込んでくる透明な流れを見た。
この、水に似た透明な流れが生命の流れなのだと、ツツジは理解する。
「流れは見えるかい? 世界じゅうを流れる水の流れを感じ、視る事ができれば、きみは立派な魔術師になれるだろうね。このわたしが言うのだから、間違い無いよ」
鷹揚に言う声が、ゆらりと揺らぐ。
「おや、きみを呼ぶ人がいるようだね。早くお戻り」
「待って! あなたは」
誰なんですか。
水の流れに流されるように遠のいた彼女に向けた問いは、最後まで口にする事ができなかった。
代わりに、彼女の笑い声が響く。
「ばかだねぇ。知っているくせに」
呆れを含んだ女の声は、やはり彼女と同じ言葉を残していった。
水中を空気の泡が昇っていく音に混ざって、誰かがツツジの背中を押す。
水の中、もう傷が痛くも、息が苦しくもない。
これが、スイの言った“こちら側”なのだと、夜空が消えたきらめく水面を見上げながら、ツツジは悟った。