痛みと引き換えに

 緊張しながらスイの部屋の扉をノックする。

「入りなさい」

 入室を許可する声はすぐに返ってきて、ツツジは深呼吸をしてからドアノブに手をかけた。
 水の五老、スイの執務室は薄い青の壁に囲まれていた。
 机の上や窓際、部屋の隅には大小さまざまな植物の植えられた鉢が置いてある。
 ツツジの顔を見たスイはにこりと微笑む。

「よく来たわね、ツツジ。とにかく座りなさいな」
「あのっ、スイ様! 僕、スイ様に治療術を教えて頂きたくて……」

 ドアを閉めて開口一番、示された席に向かう前に、ツツジは真っ先に決意した言葉を口にした。
 動きを止めたスイは、ツツジを正面から見る。

「それは、昨夜の答えかしら?」

 確認する問いに、ツツジは無言でひとつ頷く。
 その答えに、スイは笑みを消して再び問う。

「私と同じ術を使いたいと、そう受け取ってもいいのね?」

 まっすぐにツツジを見る瞳からは、普段の柔らかさが消え、代わりに鋭く重い空気がスイを包む。
 ごくりと唾を飲み込んで、ツツジは問いに答えた。

「はい。ただの治療術の使い手なら、たくさんいます。僕は、自分の出来る限り最上の事ができないと、マツラさんたちについて行けません……」
「さすが、わかっているわね。―――でも、私と同じ事が出来るようになりたいのならば……そうね、まずは腕を出してもらっていいかしら?」

 ツツジの答えに満足げな笑みを浮かべたスイは、少し考えるような間を空け、彼の腕を指さした。
 言われたままに両腕を差し出したツツジに近づき、スイは彼のシャツの袖をあげる。
 現れた白い腕をしげしげと眺め、彼女は不思議そうにツツジを見る。

「なあに、きれいなもんじゃない。今の子は、リストカットのひとつもしないの?」

 柔らかな声と単語のギャップに意味を掴みかねたツツジは、ぽかんと口を開く。

「は?」
「十代の頃って、自傷行為が付き物ではないの? 生傷の絶えない年頃じゃない?」

 まるで誰もがそうであるかのように。
 さも当然の事のであるかのようなスイの口調に、ツツジは袖を戻すのも忘れ、返す言葉を探す。

「えぇっと、おっしゃる意味が、少し……」

 かろうじて答えると、スイはさっさとソファに座った。

「それじゃあ、まずは私がどうやって植物からの治療術を身につけたか教えなくてはね。話が長くなるからあなたも座りなさい」

 自分の前と、テーブルを挟んで向かいの席に紅茶の入ったカップを置きながら、スイはツツジに着席を求める。
 青い布の掛けられたソファは座り心地がよく、ちょうどいい弾力でツツジの体重を受け止めた。
 緊張した表情で固まるツツジに対し、スイは指を組んで少し考えるようにテーブルの上を見つめる。

「あなたぐらいの年の頃、私はもう時期五老としての道が決まっていたわ。とても立派で、重たい肩書きね」

 けれど、とスイは苦笑してツツジを見る。

「信じてもらえないかもしれないけれど、私は、とても平凡な女の子だった。特別な立場を与えてもらう理由が、何一つ見つからないくらい、普通だったわ」

 この肩書きに見合う人間は他にもたくさんいるはずなのに、なぜ自分が選ばれたのだろう。

「そんな事ばかり考えていたの。そしたらある時にね、勢い余って、手首切っちゃった」

 ほんの少しだけ。
 浅く、薄く切れた皮膚から溢れる赤い液体。

「そこからね、癖になっちゃって私の腕は切り傷だらけ。でも、やめられなかった。どうしてだか、わかる?」

 問いかけるスイの表情はどこか寂しそうで、けれどツツジにはその当時の彼女の気持ちなど少しも想像できなかった。
 どうして、自ら痛い思いをしなくてはならないのか。
 一度ならず、何度も繰り返してしまうのか。

「わかりません……」

 素直にそう答えると、スイは微笑んだまま頷く。

「きっとわからない方がいいわ。血が出ている間はね、先代に相手してもらえたの」

 固い顔で話を聞くツツジに、スイは罪を告白するように、静かに語る。

「私の血を見た先代のスイ様はとても悲しそうだったけれど、心配してもらえる私は、まだ見捨てられていないんだと実感できた。私が一番恐れていたのは、先代に見捨てられる事だったから」

 繰り返される自傷行為と師の治療。
 とうとう彼女の手首に傷跡が残るようになってしばらくしてから、先代のスイは「すまないね」と言ったという。

「次期五老という立場は、重すぎただろうか。それを与えた自分を許してくれ、と。私は、先代に謝ってほしいわけじゃなかった。心配してもらえるだけで良かったの」

 今思えばとんだ我儘だが、その頃の彼女にはそれが全てだった。

「先代に傷を治してもらって、ほら、これで元通りだよ、と言ってもらえれば、それで良かった。でも、もう元には戻らなくなってしまったの。先代に謝罪の言葉まで言わせてしまった私は、本当に必要の無い存在になってしまったと思って……」

 今度こそ、深く手首を切った。

「でもねぇ、どんどん出てきて止まらない血を見て、私、生きていたいと思った。おかしな話でしょう? 自分は必要無いって、あんなに思っていたのに。その時に限って死にたくないと思ったの。なんとか媒介を握って、その時すぐそばにあった鉢植えの植物で自分の傷を治して、私は特別な存在になったわ」

 私は、私の青春を傷だらけにして血に染める事でこの術を身につけた。

 そう言ったスイは、動けないツツジをひたと見据える。

「血を見ずして他人の血を止めることができるなんて思わない事よ。一朝一夕で身につけようって言うんだから、死にかけること位は覚悟してもらわないといけないわ」
「ほ、本気ですか、スイ様……」

 彼女が冗談を言っている訳がない事は、聞くまでもない。
 それでも、スイの話に自分の体温が低くなるのを感じたツツジはそう言わずにはいられなかった。
 怖じ気付いた事を見透かしたのか、スイは背筋を伸ばしにこりと笑う。

「大丈夫、私がついているから、死ぬなんて事は絶対にないわ」

 胸を叩いた彼女のウインクに、ツツジは頷く事すらできなかった。


 切り傷に擦り傷、刺し傷やひっかき傷、果ては火傷や凍傷。どれをとっても、または身体の部位によっても、治りの速度や過程は違ってくる。
 しかし、それを同じように治すのが魔法だと、水の五老は巨大な温室の中でツツジに講釈をする。
 その背では、透明な水を湛えた池が陽光を受けてきらきらと輝いている。

「大切なのは、身体を巡る生命の水の流れを術者がイメージする事。これは、どんな治療術にも共通する事ね。血は水。水は私たちを導く属性よ。精霊は、魔術師が正しく望めば力を貸してくれるわ」

 そう言って、スイは足下から小さな植木鉢を取り上げるとテーブルの上に置いた。

「手始めに、ここに鉢植えがあるわね。例えば、私が今、このナイフで手を切れば……」

 おもむろにポケットからナイフを出したスイは、躊躇い無く自分の腕に傷をつける。
 微かに彼女が顔をしかめ、ぽたりと血が落ちた。
 息をのみ、思わず目をつぶったツツジに、スイは「よく見ていなさい」とぴしゃりと返す。

「大丈夫。なぜなら私は、水の五老スイだから、ね」

 彼女の手にしていたナイフが微かに光を帯び、腕の傷口の血が止まる。
 怪我が治る様子を早送りしたように、スイの腕の傷は瞬く間にふさがっていった。
 つい今さっきまで血が流れていた事が嘘のように、彼女の腕に残ったのは、時間がたてば消えそうな薄い傷跡だけだ。
 そして代わりに、テーブルの上の鉢植えは茶色く干からびていた。

「小川が大きな河に流れ込むように、植物を流れる生命の流れと、自分たちの身体を流れる生命の流れが合わさる。それが私たちを癒してくれる。それを明確にイメージなさい」

 目を見開いて一連の様子を見ていたツツジの顔色は、青い。
 しかしスイは全く構わない様子で、自分の持っていたナイフをツツジに差し出した。

「次はあなたの番よ」

 それは、ひどく恐ろしい言葉だった。

 出来なかったら私が治療するから、怖がる必要はない、というスイの声は、耳を滑って流れてゆく。
 自分で自分を傷つけるなんて、ツツジの常識ではあり得ない事だ。
 怪我など、しないに越した事はないのに。
 血を流す事は怖い。痛い事は、恐ろしい。
 たとえ修行の一環なのだとしても、すんなり受け入れる事はできなかった。
 マツラやオカリについて行くために、スイから治療術を学ぶと決めたはいいが、まさかこんな方法だなんて誰が想像しただろう。

 けれど覚悟を決めないと。

 ここで立ち止まっていては、置いて行かれてしまう。
 二人とも、どんどん先に行ってしまう。

 唾を飲み込もうとしたが、口の中はからからに乾いていた。
 それなのに、微かに震える手のひらには汗がにじんでいる。
 差し出されたナイフを受け取れずにいるツツジに、スイはずいとナイフを差し出してくる。

「さあ」

 控えめながらも細かな装丁が施してあるそのナイフは、紛れもなく彼女の媒介だった。
 動けないツツジに、小さく息をついて、スイは髪を耳にかける。

「できないのなら仕方ないけれど、私から学ぶと決めたのはあなた自身よ。私は、ケムリと違って優しいやり方なんて知らないの。こういう、荒っぽいやり方でしか会得できなかったから他に教え方がわからないわ」

 差し出したナイフを一旦引き、スイはテーブルを周りツツジのほうへ歩み寄る。

「だから、あなたも生命の水を流して、こちらへ来なさい」

 淡い水色の目が、瞬きを忘れて固まるツツジを捕らえた。
 白く細い腕が伸ばされ、ツツジの腕を強く掴む。

「精霊は、あなたを見捨てたりはしない」

 その言葉と同時、掴まれた右腕に焼けるような痛みが走る。
 真っ白になった頭で、何も考えずに悲鳴をあげたツツジは、次の瞬間スイの後ろにあった池の中に放り込まれた。