僕が立ったスタートライン

 繰り返し叫ぶように名前を呼ぶ声に、ゆっくりと目を開けた。

「気がついた……良かった……!」

 安堵の声でそう言ったのは、逆光の中でツツジの顔をのぞき込んでいるオカリだった。
 温室にいたのは、自分とスイの二人だったはず。
 なせ、彼女がここにいるんだろう。

「オカリさん……?」

 不思議に思って彼女の名前を呟く。
 戸惑いながら起きあがって見れば、頭からつま先までびしょ濡れだった。
 それだけならまだしも、どうしてかオカリまでが髪や服から滴をしたたらせていた。

「なんで、オカリさんが濡れてるんですか?」
「何でじゃないわよ、ばかっ! あんた何やってんのよ!!」

 疑問を口にしたとたん、怒鳴った彼女は正面からツツジの肩を掴んできた。
 指が食い込むほど力を入れて、オカリは続ける。

「あたしが助けなかったら、あんた溺れて死ぬとこだったんだからね!?」
「そんなに怒るほどの事じゃ―――」

 ない。

 言いかけた言葉は、ツツジの喉に引っかかって止まった。
 金色の髪が、目の焦点が合わないほど近くにある。身体をぎゅうぎゅうと締め付けるのは、オカリの腕ではないだろうか。

「いつもいつも、無茶するなって言ってるのはアンタでしょ!?」

 今までで最も至近距離にあるオカリの肩が、震えている。
 これは何かの間違いではないだろうか。
 自分は、どうしたらいいのだろう?
 物語では、こういう時相手を抱きしめ返すのが通常だ。
 けれどこれはツツジの現実で、読み途中の物語ではない。
 硬直していると、オカリの後ろに立っていたマツラが困ったように微笑む。

「オカリちゃん、ツツジが池に落ちたのを見てすぐ飛び込んだんだよ。オカリちゃんが、一番心配してたの。だからツツジ」

 彼女が示すジェスチャーは、「抱きしめてあげて」

 マツラさん、なに言ってるんですか。

 思いがけないマツラのジェスチャーに戸惑っていると、勢いよく離れたオカリは真っ赤な目でツツジを睨んできた。

「女の子が泣いてたら慰めなさいよ、ばかっ!」

 ぼすんと一発飛んできた拳が、腹部にヒットする。

「うっ、ご、ごめんなさい」

 謝りながら盗み見たオカリは、ごしごしと目をこすっていた。
 彼女は本当に泣いていたのだろうか?
 前髪から滴る水滴ではなく?
 疑ってしまうのは良くない事だが、どうして今、彼女が泣く必要があるのだろう。
 オカリは、何があっても弱音ひとつ吐かない人なのに。
 ほんの少し疑問を感じて考えていると、横から腕を持ち上げられた。

「いちゃついてる所悪いけど、腕の傷は治っているようね」

 スイの言葉につられてツツジも持ち上げられた右腕を見た。
 切られて血を流していた腕に、もう傷は無く、裂けた袖の下にはうっすらと白い跡が残っていた。

「池の中で、あのお方には会えた?」

 “あのお方”が、水中で自分に話しかけてきた姿無き声の事だと察し、ツツジは無言で頷く。

 知っているくせに。

 そう言い残した女の声の心当たりは、ひとつしかない。

「あの声は……」
「水の精霊よ」

 言い終わるよりも先に短く答えを言い放ち、立ち上がったスイはツツジを見下ろす。

「私が管理するこの泉は、水の精霊が居を構える特別な場所よ。精霊は私達を見捨てたりしない。だから、私はあなたを突き落としたの」
「だからって……荒療治すぎるでしょ」
「残念ながら、私の教え方は少し荒っぽいのよ」

 ふふ、と笑ったスイは再びポケットからナイフを取り出した。

「ではツツジ、成果を見せてもらいましょうか」

 止める間もなく、スイは指先にナイフの刃を走らせる。
 みるみる盛り上がって滴る赤い滴に混ざるように、水の中で見た透明な流れと同じように、別の透明な流れが地面に落ちるのが見えた。
 近くの鉢植えと、血の滴るスイの指先を見比べたツツジは媒介を手に取った。

 小さな植物を流れる水は、生命の力。
 スイの傷口から溢れるものを補うように、その流れをスイの方に向ける。
 驚くほどスムーズに描かれるイメージと同時、ラケットがゆるい光を帯びる。
 見守られる中、スイの小さな傷は萎れた小さな植物を残してきれいに治癒した。

「合格よ。おめでとう、ツツジ。そしてようこそ、“こちら側”へ」

 満足げに微笑むスイに、ツツジは深く頭を下げた。
 しかし、再び顔を上げた彼の表情は晴れない。
 少し顔を歪めて、ツツジは遠慮がちに言った。

「でも、スイ様。もう二度と、こうやって自分で自分を切らないでください。お願いですから」

 乞うような声に、スイは僅かに目を見開く。
 少しの間を開けて、彼女はツツジから目を逸らして頷いた。

「そうね。ありがとうツツジ。考えておくわ」

 ごく当たり前の言葉は、ひどく懐かしい。
 まだ未熟な少年のひとことは、師である先代が彼女に向けたものと同じ言葉だった。


 濡れた服を着替えるために部屋に戻ったツツジは、濡れたシャツを脱いで傷跡の残る腕をまじまじと見つめていた。

 新しい事が出来るようになったという実感は、まだ無い。
 さっき、スイの指先の傷を治した事も、半分夢の中の出来事のようだった。
 ふと思い出したのは、マツラの属性識別の時の事。
 五つ全ての精霊と契約を交わしたマツラもまた「実感がわかない」と言っていた。
 新しい事が出来るようになったからと言って、急に自分の持っている感覚が変わっていく訳ではないらしい。
 それに、変わったと言うのなら確かにさっきは、今までは見えなかったものが見えていた。これは明らかな変化だ。
 スイの傷が塞がると見えなくなったところから察すると、どうやらあの透明な流れは常時見えるものではないらしい。

「これで、ついて行ける」

 呟いて、見つめた右手を強く握りしめる。
 これから先、何が起こるかわからない。
 本当なら、治療術など使わないで全て終わるに越した事はないのだ。全員が無傷で済むのなら、それに越した事はない。
 それはとても希望薄な事だとわかってはいるが、だからこそ、自分が治療術を身につけた事に意味がある。

 何に代えても、彼女たちの傷を癒せる術者になる。
 何があっても彼女たちについて行くのだ。

 オカリとマツラの行く末を最後まで見守る、それが自分の役目。
 全てが終わる、その時まで。
 何度オカリの機嫌を損ねても、絶対に離れたりしない。
 とても苦しくて長い道の先であっても、力及ばない事の方が多くても、今できる精一杯で食らいついて行くと決めた。

 やっと今、スタートラインに立つことができたのだから。

 決意を新たに、袖を通したシャツのボタンをかけているとドアがノックされた。
 同時にドアの向こうから声がかけられる。

「入るわよ」

 短くはっきりとした声はオカリのもの。
 ドアノブを回す音を聞いて、ツツジは慌てて返事をする。

「ちょちょちょ! 待ってください! まだ着替えてます!!」

 半分しか服を着ていないような状態で乱入されては、たまったものではない。
 水に冷えた指先では、ボタンひとつかけるのもいつもより手間取るが、できる限り最速で乾いた服に着替えて、ツツジはドアを開けた。

「お待たせしました、どうぞ」
「ズボンとシャツを着替えるだけなのに、ずいぶん遅かったじゃない」

 腕を組んでドアの横の壁にもたれ掛かっていたオカリは皮肉るようにツツジを見上げた。

「女性を部屋に招くのに、散らかったままではまずいでしょう?」

 真面目くさった表情をつくって答えれば、オカリは「あら」と首を傾げる。

「何かおもてなししてくれるの?」

 言いながら滑るような動きで部屋に入ってきたオカリは、室内を見回すとあからさまに残念な顔をした。

「あんたの部屋、お菓子のひとつも無いじゃない」
「残念ながら。食堂から何かもらってきましょうか?」

 あそこに行けば、飲み物も食べ物も分けてもらえる。
 だが、オカリは左右に首を振った。

「いい。それより、もうなんともないの?」

 少し低くなった声に、ツツジはドアに向かおうとしていた動きを止める。

「あんた、あたしが引き上げたとき、息してなかったのよ」

 静かにツツジを見る紅梅の瞳に、返す言葉が見つからない。

「マツラも、おねーさんも、大丈夫だって言ったけど、あたしには信じられなかった。何が大丈夫なのか、意味わかんなかった。でも、二人が言ったとおり、ツツジは目を覚ました」

 魔術師って意味わかんない。

 そう口にして、オカリは大きなため息をつく。

「あたしから見れば、何やってんのかって感じ。ホント意味わかんない。魔術師ってのは死にたがりなわけ? ツツジは何の考えも無しに妙なまねする奴じゃないって知ってるつもりだったけど、あたし今回の事は許さない」

 呆れた表情は、鋭い視線にとって変わる。

「約束しなさい。無茶しないって。あたしに無断でこういう事しない、って」

 ひどく高慢な口調だが、彼女の表情はそうでもない。自分を見る瞳の奥にちらりと不安の陰が見えて、ツツジはオカリを安心させるように表情を緩めた。

「オカリさん、心配するほうの気持ち、少しはわかってくれました?」
「ふざけてないで、返事は?」

 ツツジのシャツの裾を握ったオカリは語調を強める。
 これは、返事をしないと納得してもらえそうにない。

「ふざけてなんか、いないですよ。約束します。僕はオカリさんを心配させるために治療術を会得したかった訳じゃありませんからね」

 微笑んだツツジに、オカリは少し不服そうに彼を見上げた。

「……約束よ」
「はい。約束です」

 そう言ったオカリが、普段よりも幼く見えてツツジは年下の少女にするように頷く。
 しばらく懐疑的な視線でツツジを見ていたオカリも、やっと納得したのか、ツツジのシャツから手を離した。
 窓の外に目をやった彼女は、取って付けたようにひとこと付け加える。

「別に、心配してたわけじゃないから」
「ええ、知っていますよ」

 心配していない、と言い張る彼女が真っ先に自分を助けてくれた事や、じゅうぶんに自分の事を心配してくれている事。
 妙なところで意地を張るオカリは、ツツジが助けてくれた事に感謝を述べる前に、うやむやにして逃げきってしまうという事も。

「知っていますから、オカリさん、これだけは言わせてください」

 少しためらってから、そっぽを向いているオカリの肩に手を乗せる。
 怪訝な表情で自分を見たオカリの目をまっすぐに見つめて、ツツジはゆっくりと息を吸った。

「ありがとうございます」

 魔法の呪文を唱えるように、ゆっくりと音にした言葉。

 昨日も、それより前にも、初めて会ってから今まで。何度も彼女に向けた事のあるひとことを、過去の何十回、何百回よりもずっとずっと丁寧に、大切に口にした。

 いっぱいに目を見開いたオカリが無言で数歩あとずさる。
 彼女の様子に瞬きをするツツジに、額に手を当てたオカリは苦々しい声で呟いた。

「あんた、ほんと、たち悪いわ」
「何がですか?」

 きょとんとして問い返せば、大きなため息を返して「もういい」と呟いたオカリがソファに身体を沈める。
 さっきまでの事や、これから魔王を倒しに行くという目的が嘘のように、平和な空気が室内に満ちていた。