見送る朝日に手を振った

 静まった宵闇に紛れるようにして家を出た。
 今度こそ出発だと、ツツジはつい数時間前にオカリに返してもらったハンカチを差し出す。
 不思議そうにそれを見るオカリに、これは旅の安全を願う魔法がかけられている、と伝える。

「返してもらったばかりですが、僕よりも、オカリさんが持っていたほうがいいでしょう。これは、絶対にオカリさんを守ってくれる物ですから」

 何のために取り返しにきたのか、と呟いたオカリは素直にそれを受け取ると、肩からさげた小さな荷物の中にそれをしまい、顔を隠すように深くフードを被る。
 それを見届け、ツツジは彼女の体調を気遣うように声をかけた。

「ダケ・コシに着いたら、治療魔法を使える魔術師がいます。それまで辛抱してくださいね」

 ツキサまで戻ってきて、落ち着く暇もなくフィラシエル行き。
 同じ旅をしてきたツツジでも疲労は溜まっているが、オカリの方はもっと限界に近いはず。
 だがオカリは「アタシを誰だと思ってるの」と言って、出発してからも疲れどころか身体の不調すら見せようとはしなかった。

 たいしたもんだと舌を巻いたのはツツジもラクトも同じ。
 しかし、オカリが無理をしている事を知っている以上、ツツジは自分に治療魔法が使えない事が悔やまれて仕方ない。

 結局、魔術師だという事が知られても自分は彼女の助けにはなれないらしい。
 不甲斐ない事実に少し落ち込むが、そんな事は言っていられなかった。

 夜のうちにツキサを出て、郊外の森を抜けなければならない。

 そこから更に進み、丘陵地帯にある木立の中を目指す。
 その小川沿いにある開けた場所が彼らの目的地だった。
 五老から届いた展開式移動魔法陣は、指定された条件を満たす場所で、魔法陣を展開させればフィラシエルのダケ・コシ本山の近くの街まで飛べる。
 そこまで行けば、常設の移動魔法陣を使ってダケ・コシにある魔術師の街へ行けるのだ。

 移動距離が遠ければ遠いほど、移動魔法の難易度はあがる。

 ツツジやラクトの技術では国境を跨いでダケ・コシへ行く事など不可能だ。
 今回、木の五老の手紙と共に届いた展開式移動魔法陣は最上位魔術師である五老が作った物で、展開すれば決められた場所まで必ず飛ばしてくれるという代物だった。

 一刻も早く帰ってこいと言い、なおかつ最短時間で帰る手段も用意してくれる辺り、一体本山で何が起こったのか逆に不安になってくる。
 結局、ツキサ滞在は二年間の予定だったが、あと少しで一年という所で切り上げる事になった。
 任務期間の長さゆえ途中で何が起こるかわからない。

 とはいえ、これはあまりにも異例の事態ではないか。

 募る不安にツツジの表情は自然と暗くなる。
 辺りはまだ暗い。
 ツキサを出てから、だいぶ時間が経ったような気がするが目的の場所に着くまで、あとどのくらいかかるのだろう。
 オカリはこのままのペースで付いて来れるだろうか。
 ちらりと振り返れば、フードの下の赤い瞳と目が合う。

「大丈夫ですか?」

 小さな声で訪ねれば、オカリはひとつ頷く。
 視線だけで周囲を確認して、オカリはそっと口を開いた。

「ここまで来れば、もう喋っても大丈夫よね?」
「足が遅れんならな」

 素っ気なく答えたのは小さな明かりを持ったラクト。

「言われなくたって、わかってるわよ」

 少しむっとしたように言い返したオカリは前を歩くラクトと、隣に来たツツジを交互に見る。

「アタシが知りたいのは、二人がどうしてツキサに来たのかって事。遊びに来たんじゃない事だけは確かだろうけど」

 グランディスは魔術師にとって決して過ごしやすい場所ではない。
 オカリの言葉に、ツツジはラクトを見る。

 こちらの状況を全てオカリに話すのはいかがなものか。
 しかし聞かれた事に答えないのも悪いような気がして、結局仕事という無難な答えで済ませてしまう。

「魔術師の仕事? あんた、仕事の合間にアタシのとこに来てたの?」

 それで大丈夫なのかと顔をしかめるオカリに、それも仕事だと付け加えると、一瞬目を見開いたオカリはにやりと笑う。

「ふぅん、そういう事」

 以前ツツジは、本当の事を知れば彼女は怒るだろうかと思った。
 だが、オカリは納得したように頷いて「お役に立てたかしら?」と意地の悪い笑みを浮かべる。
 その笑顔にツツジは少し安心し、けれど怒りも悲しみも見せないオカリの反応に複雑な気分になる。

 一体彼女は、いつから気付いていたのだろう。
 ツツジが魔術師だと知っていて、彼女はずっと自分を側に置いていたのか?

 ひたすら続く自分たちの足音と、再び訪れた無言の時間。
 漆黒の闇が藍色に変わって来る頃、ツツジたちは森を抜けた。
 徐々に開けてゆく視界に合わせるように空の色は、藍から紫へと徐々に色を明るく変えてゆく。
 日が昇る前の夜明けの静寂を感じながら、ツツジはぽつりと口を開いた。

「僕も、ひとつ聞いていいですか」

 ざくざくと土を踏む音に重なるように、「なに」と力のない声が帰ってくる。
 明かりを消したラクトも、数秒だけ視線をツツジのほうに向けた。

「オカリさんは、いつから僕が魔術師だって気付いていたんですか」

 答えが怖くてオカリのほうを見れない。
 しばらくの間。足音だけが三人の耳に響き、ツツジはオカリの返事を待つ。

「確信したのはね」

 オカリは言葉を選ぶようにゆっくりと言う。

「ツツジが、ハンカチを握らせてくれたとき」

 次の日になっても、それはきれいな水に浸したばかりのように濡れていた。
 もちろん汚れもいっさいない。

「次の日も、その次の日も同じ。さすがにね、考えるわよね。魔術師だし」

 誰でも考えるだろう。
 どう考えても放っておいてはいけない存在だ。そもそもフリューゲルは魔術師の事を悪だと声高に言っているのだから。

「考えたから、もう来るなって言ったのに……」
「この馬鹿はおまえさんの所にまた来た、と」
「その通り」

 ラクトの言葉に指をさしたオカリと、指をさされたラクトが揃って盛大に溜息をつく。
 その声に、とっさに二人を見比べるツツジに対して、オカリは頬に手を当て、ラクトは腕を組み。

「困ったもんよね、ほんと」
「同意してやる。一回怒っとけ」

 粘度のある二対の目がツツジに向けられる。

「な、なんで二人ともそんな顔で……」

 訳がわからない。

 どうしてここで二人が手を組むような雰囲気になるのか。
 そもそも、ラクトならともかく、なぜオカリに怒られなければならない?

 納得がいかないと声にしようとした寸前、東の空から光が射した。
 夜明けだ、と呟いたのはラクト。
 目を走らせれば遠くに朝日を反射する小さな帯と木の生えた一帯が見える。
 見たところ近くに民家は無いが、とっくに人が起き出す時間に入っている。誰かの目に留まれば面倒な事になるかもしれない。

「急いだほうがいいんじゃ?」

 表情を引き締めたオカリが、顔を出し始めた太陽とラクトを見比べる。
 朝日を受けて、フードから少しだけこぼれていた薄金の髪が透明に光っているように見えた。

 森を抜けた事で、それまで木々に遮られていた冷たい風が追い打ちをかけるように、するりとツツジたちの頬を撫でる。
 ダケ・コシについたら、まずは暖かいスープを飲みたいな、とぼんやり思う。
 そしてオカリには十分に休んでもらおう。
 治療術を使える魔術師に頼んで、彼女の傷も治療してもらわなければ。

 冬が訪れ、昼の時間が最も短い今の時期、ダケ・コシはおそらく昇位試験の最中だ。
 それを受けに来ているであろう師匠たちとも、一刻も早く合流したい。
 だが、その前に今回の報告などがあるだろう。
 帰ったとしても、まだしばらくは落ち着けそうにない。

「ラクトさん」

 名前を呼ぶとラクトは頷いてツツジとオカリを見る。

「あぁ。行くぞ。お姫さん、ダケ・コシについたら美味か飯ば腹いっぱい食わせてやるけん、もうしばらく頑張らんね」
「その言葉、絶対守ってもらうわよ」

 嬉しそうに笑ったオカリに、約束だ、とラクトも口元に笑みを浮かべた。

 三人が目的の場所についたのは、太陽が完全に顔を出してしばらくしてから。
 朝露が足下の草を濡らし、まだ気温も上がりきっていない。
 柔らかな朝の日差しに照らされた三人の表情は疲労に強ばっていた。

 冗談を言う気にもなれず、誰ともなく「疲れた」と低く呟き、深く息をつく。
 ラクトが懐から一通の封筒を取り出すのを、小川のせせらぎを聞きながら見守る。
 疲労の浮かぶ顔に無理矢理の笑みを浮かべたラクトが、手にした封筒をおどけたように振って見せた。

「これを開けたらもうフィラシエルだ。初めての奴もおるけん、一応言うとくけど、ちょっと揺れるけん気をつけんばいかん」

 オカリをしっかり捕まえておくように言われ、ツツジは躊躇いながら手を差し出す。

「あの……」

 強い彼女に、この手は必要ないかもしれない。
 そう思うと、うまい言葉が出てこない。
 口ごもったツツジに、しかしオカリは「ありがとう」と返すと、出された手を握る。

 冷えたオカリの手は、すっぽりとツツジの手の中に収まった。
 反対の手には魔法媒介のラケット。

「よし、準備は良かね? ……じゃあ、帰るぞ」

 ラクトはポケットから一枚のコインを取り出し、右の小指でそれを握る。
 彼の言葉に、ツツジの手を握るオカリの手に力が籠もった。
 ツツジとオカリが見守る視線の先で、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込んだラクトが封を開けながらゆっくりと口を開く。

「国境の魔術師、ラクト・コヒの名に於いて、五人の老魔術師より賜りし魔法陣の展開を求める。行き先は偉大なる五老の意のままに―――」

 封筒から、二つ折りにされた紙が取り出された。
 開かれた紙の上に複雑な図形が描かれているのが見える。

 ラクトのコインと、それに続いてツツジのラケットが淡く光を帯び、冷えた朝の風が三人の間を抜けていく。
 二人の媒介と同じく、淡い光を放つ紙を顔の高さまであげたラクトが、数秒の間を開けて高らかに宣言した。

「我らを定めし地まで召し出したまえ!」

 言葉が放たれた瞬間、強い風が吹き抜けラクトの持つ紙が緑の炎に包まれた。
 彼の手から離れた紙は一瞬で灰になり、同時に三人の足下に紙に描かれていたものと同じ、光を放つ図形が現れる。

 風でフードの脱げたオカリが息を呑んだ音が聞こえ、ツツジは繋いだ手を引き寄せた。
 その瞬間、落とし穴にはまったように、唐突に足下が抜ける感覚に襲われた。