彼女が作る逃走の道
冷えた闇の中、深くかぶったフードの下から一対の眼がツツジを見上げた。
嫌と言うほど見覚えのある紅梅の瞳に、ツツジは我が目を疑い、呻くように彼女の名前を口にした。
「なんでここにいるんですか、オカリさん……」
彼女がここにいるはずがない。
しかし、よろりと立ち上がった黒い影。
そのはずみで脱げたフードから、淡い金の髪がこぼれ出る。
オカリはツツジとラクトを交互に見ると、視線をツツジに定めた。
「絶対置いてかれると思ったから、来た」
低く強い声に、ツツジの後ろで「まじかよ」とラクトが呟く。
めまいすら感じながら、ツツジは素早く周囲を確認してオカリの腕を引いた。
音をたてないようにしてドアを閉じ、改めてオカリを見る。
少し顔色が悪いように見えるのは、たぶん気のせいではない。
「どうして来ちゃったんですか。医者にも安静にって言われてるんでしょう?」
呆れて言えば、オカリは不服そうに頬を膨らませる。
「待ってたって、絶対迎えになんて来ないでしょ。おとなしく言うこと聞くと思ったら大間違いなんだから」
どうだ参ったか、と言わんばかりの口調はいつも通り。
顔色と比例しないその態度は、負けず嫌いの彼女らしい。
無茶苦茶だ、と天井を仰いだツツジの後ろで、ラクトも顔をひきつらせて首を振った。
「お姫さん、どがんつもりかは知らんけど、下準備もなくあんたが消えたら大騒動になる。俺らはあんたの事は連れて行かん。悪か事は言わんけん、屯所に帰らんね」
「部屋には置き手紙してきたから大丈夫。それにね、ここまで来るの、すっごく大変だったの。また帰るなんてごめんだわ」
肩をすくめて見せたオカリは、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「たった一度の敗北に心折れた少女は、自ら身を引くのよ」
舞台女優を真似たように、おおげさな口調で情緒たっぷりに続ける言葉。
「―――ああ、私にはもうここにいる資格は無いのです。こんなに弱い私では、国王はおろか皆さんの前に出る事もはばかられます。皆さん、どうか私の事は忘れてください! この街を去る、こんなわがままな私を、許してください!」
「それ、置き手紙の内容ですか?」
呆れをとおり越し、さらに怒る気力も無くしたツツジに、オカリはにやりと笑う。
「そうよ。そして少女は伝説になる。ロマンティックでしょう?」
よくもまあ、恥ずかしげもなくすらすらと出てきたものだ。
劇的な設定はゼンリの好みだと付け加えたオカリは短くなった髪を耳にかけて、ラクトを見る。
「あなたも呆れてるのかしら? でもね、覚えておきなさい。この国の人間はドラマティックでロマンティックなお話が大好きよ」
例えば戦地に赴く男と彼を待つ娘の恋なんて、かつてこの国の至る所にあった話。
それこそ、溢れるほどに。
悲恋に終わった二人の物語、大勢の恋人たちの悲恋は、脚色して誰かの美しい物語にしてしまえばそれだけで悲しみは和らぎ救われる。
戦いに散った勇敢な青年を待ち続ける娘の恋は、聞く人々の涙を誘うが同時に娘たちは心をときめかせるのだ。
「戦いの数だけ、ドラマティックな物語がある。それが真実でも、嘘でもね。物語は救いになるから、グランディスの人間は戦い争う事と同じくらい、そういうお話が大好きなの」
ゼンリが仕立てあげた、勝利の乙女オカリ・ユフ。
「……初めて会った日。苦戦するゼンリの目の前で、アタシは魔獣の目を射抜いた。その瞬間、あいつの中で勝利の乙女の設定が作られた。そして例に漏れず、アタシの設定は、グランディスのそういう嗜好に合致したって訳。おわかり?」
魔獣狩りに行ったとき、オカリは「初めてじゃない」と言った。
その意味を、ツツジは今、初めて知った。
オカリはツキサに来る前に、魔獣と対峙した事があったのだ。
「もっとも、この件は厳重に伏せられていたけどね」
そう言う挑発的な視線の先では、顔をしかめたラクトがオカリを睨む。
ラクトの猫科の動物を思わせる眼が僅かに細められた。
「呆れて言葉も無か。……どうしても俺らと一緒にフィラシエルに来るつもりか。正気とは思えん。この国の人間は魔術師を嫌っとるはず。フリューゲルでその頭になっとったあんたが、どうしてこっちに来ようとする?」
「アタシは、お人形のままは嫌なの」
間髪入れずに答えたオカリに、ラクトは否定の言葉を被せる。
二人の間に流れる殺伐とした空気に、ツツジは一歩後ずさった。
「いいや違う。お姫さん、あんたは嘘ばつきよる。ツツジは騙せても俺は騙せん」
今持っている物を全て捨ててフィラシエルへ来る。その理由は一体何だ。
しばらくにらみ合い、オカリは絞り出すように口を開いた。
「嘘じゃない。もう戻って来れない事なんて、ゼンリについて町を出た時から分かっていたわ」
正気じゃないと言うのなら、あの時からもう狂っていた。
「どこにも居場所なんてありゃしない。あの町にも、フリューゲルにも。どこにいても、あたしは誰かの望むパーツで、道具なのよ。だから、換えの効かない部品になってやろうとした。でも、無理」
部品のままではいたくない。例えそれが一つしかないパーツでも、指図どおりに動くのは嫌だ。
春を告げる紅梅の瞳が微かに揺れる。
オカリの声は静かな室内に重く響いた。
「ゼンリが望む事が魔術師たちとの全面戦争なら。あたしは間違いなく、何かしらのきっかけを作らされる。そんなのごめんなのよ」
グランディスの国民は、本能的に戦いを好む。はるか昔から刻み込まれた、変える事のできない民族の本質。
しかし自分はそこから半分はみ出してしまった。
少しだけ自嘲気味に笑ったオカリは二人の魔術師を見比べ、明瞭な声で淀みなく言い放つ。
「逃げてると思うんなら、そう言えばいいわ。でもね、あたしは、このままゼンリの下にいて、自分の知り合いが戦いに行くのを煽るような奴にはなりたくない」
唇を引き結んだ彼女の声の余韻が闇に溶けて、先に視線を逸らしたのはオカリのほうだった。
喋りすぎた、と口の中で呟いたオカリは気まずそうに床を見る。
伺うようにラクトを見れば目が合い、「どうする」と問うように眉を跳ねさせ、大げさにため息をつく。
ツツジにはこのまま彼女を放っておく事は出来そうになかった。
ラクトさえ許可してくれるなら、オカリも一緒にフィラシエルへ連れて行きたい。
手に負えない相手から逃げるのは悪い事ではないというモコウの言葉が頭をよぎる。
オカリは逃げてると思うなら、と言ったがそうは思わない。
彼女は逃げるのではない。戦う為にフィラシエルへ行くのだ。
ゼンリの目論見を潰すという目的のために。
体調も万全ではないのにここまで来たオカリだ。
置いて行こうとしても、どうにかして食らいついてくるに決まっている。
「ラクトさん、僕は……」
ゆっくりと口を開くと、ラクトは右手をあげてそれを遮る。
「ひとつ確認する。お姫さんは、グランディスとフィラシエルが戦争をする事には反対か?」
じっとオカリを見る眼に答えるように、彼女は小さく首を傾げ、少しわざとらしい瞬きをした。
「知ってる? 内乱が終わってまだ十年もたってないの」
紅梅の瞳は困ったような笑みを浮かべる。
「国民はもっと平和を謳歌してもいいんじゃないかと思うのは、間違い?」
かつて誰かが、彼女にそれは間違いだと言った。
そう思わせるような声に一瞬、ほんの少しだけ。
ツツジは自分でも意外な事に、オカリが泣いているのかと思ってしまった。
はっとして見れば、彼女は答えを待つようにツツジたちを見ている。
答えなんて、言うまでもない。
「間違いじゃありませんよ」
「俺らとしても、避けられるなら無用な戦いは避けたか。連れて行く気は無かったが、そがん言い切れる所は気に入った。お姫さん、あんたばフィラシエルに連れて行ってやる」
仕方ない、と続いたラクトの言葉にオカリはありがとうと微笑んだ。
が、次の瞬間強い眼光でもって付け加える。
「でもね、その呼び方やめてもらえる? 何を勘違いしてるのか知らないけど、アタシはお姫様なんかじゃないの」
その呼び方にフリューゲル内の天敵、オーキ・シンを思い出すから嫌なのだ、という本当の理由はツツジとオカリの胸の中に留められた。