黒き星の目覚め

 胃を引っ張られるような妙な感覚のあと、階段を踏み外した時に近い衝撃が足にきて、視界を覆い尽くしていた光が引いた。
 まぶしさに点滅する視界が落ち着くと、石の壁に囲まれた薄暗い室内にいることがわかった。
 腕にかかる重さにそちらを見れば、青い顔をしたオカリがツツジの腕にしがみついている。

「だ、大丈夫ですか!?」

 とっさに支えるように腕を差し出すと、弱々しく頷いたオカリは「きもちわるい」と呟く。

「相当疲れとるごたったし、酔うたっちゃろ。休めばすぐ収まる」

 ラクトはオカリを一瞥すると、この石造りの部屋の唯一の出入り口らしい木のドアに向かう。

「門番ば呼んでくるけん、ここで待っとけ。そいと、ダケ・コシに行くにはもう一回今と同じめに会う事になるけん覚悟しとけよ」

 言い残してさっさと出ていくラクトを見送って、オカリはずるりと床に膝をつく。

「もう一回? 嘘でしょ……」

 口元を押さえたオカリの背を慌てて撫でていると、ドアの向こうが騒がしくなった。
 どうやらラクトが門番を連れてきたらしい。
 これでやっとダケ・コシに到着だ。随分時間がかかったような気がする。

 ほっと胸をなで下ろした瞬間、勢いよくドアが開けられ血相を変えたラクトが飛び込んできた。
 ラクトに続いて、胴回りがふくよかな男がドアをくぐる。
 襟元に光る魔術師の紋章を見るに、彼が門番なのだろう。
 それにしてもラクトの慌てようは普通じゃない。

 嫌な予感が膨らむ。

 詳細は追って伝える、と書いてあった木の五老からの手紙。
 しかし結局その詳細は届かなかった。
 ツツジもラクトもまだ知らない緊急事態の、その内容。
 彼は門番から、何が起こったのかを聞かされたのだ。

「ラクトさん、何があったんですか」

 この様子から察するに、きっとラクトが予想もしていなかった事に違いない。
 想定外の事態とは、いったい何だ?
 こわばった表情でツツジを見たラクトは、意を決するように唾を呑むとゆっくりと口を開いた。

「ダケ・コシに魔王が出た」

 言葉の意味が、すぐには把握できなかった。
 それはオカリも同じようで、きょとんとしてラクトを見上げる二人に向かって、彼は固い声で繰り返す。

「ダケ・コシに、魔王が出た。今年の昇位試験は中止になった」

 考えるようにラクトを凝視するツツジとオカリ。「落ち着いて聞け」という一言を挟んで、ラクトはツツジの前に膝をつき、その目をのぞき込む。

「魔王を迎え撃ったのは、昇位試験のためにダケ・コシに来ていた初級魔術師、マツラ・ワカだ」

 魔術師たちの総本山、ダケ・コシ。
 多くの魔術師が集まるこの場所で、初級魔術師など無力に等しい。
 にも関わらず、その場で唯一対抗できたのは修行を始めて一年にもならない新米魔術師だった。
 妹弟子の名前に、息を呑んだツツジは目を見開く。

「それで、マツラさんは……?」

 微かに震える声に答えたのは、門番の男。

「緑眼の初級魔術師は、五老の城にいるよ。僕は現場にいなかったけど、魔王襲来のとき彼女だけが魔王の力の前に伏すことなく対峙したらしいね。たまげたもんだ! きっと討伐隊の中心になるのはマツラ・ワカだろうね。まだ初級だけど!」

 早口に言って小さく笑う男に、ツツジとラクトは顔を見合わせる。

「討伐隊?」

 声を揃えた二人の間で、それまで俯いていたオカリがやっと顔をあげた。

「さっきからアンタたち、何の話してるのよ」

 顔色はさっきより少しましになったものの、まだ気分が悪そうな表情でラクトを見る。

「魔王って、武術王デオ・ヒノコが殺した、昔話の登場人物じゃない。魔術師は揃いも揃って夢でも見てるの?」
「残念ながら、それはグランディスの話です。フィラシエルの昔話では、魔王は緑眼の魔術師ミウ・ナカサにより封印されたところで物語は終わっています」

 史上最強と謳われる、緑の瞳の魔術師ミウ・ナカサ。
 彼女が施した封印が破られるのも、時間の問題ではないかと言われていた。
 ツツジの説明にオカリは納得できないとまばたきを繰り返す。

「つまり、魔王は生きていた。あたしたちが信じてきた英雄の昔話は嘘だった、と?」

 全部が嘘じゃない、と口を挟んだのは妙にテンションの高い門番だった。
 さらに何か言おうと口を開きかけた彼は、オカリの顔を見てめいいっぱい目を見開くと小さく唇を震わせながら、オカリを指さす。

「ぶ、武術王の……!!」

 そのままラクトとオカリを交互に見て、男はラクトに詰め寄る。

「おい! どういう事だ! この娘さんは何者だ!? 今から昔話の再現でもしようっていうのか!? お前確か、グランディスからここに飛んできたな!? つまりこの子は……」

 武術王の生まれ変わりか、と悲鳴のように言った門番はラクトに押し退けられたが、それでも勢いは収まらないらしく、彼の言葉は尚も続く。

「ミウ・ナカサの緑眼を持つ魔術師と、デオ・ヒノコの特徴を引き継いだグランディス人がいて、魔王が復活して、これが異常事態と呼ばずしてなんて呼ぶんだよ!?」
「せからしか! 異常事態じゃなかなら、緊急事態やろうが!! つべこべ言わんで、さっさとダケ・コシに行かせろ!!」

 一喝したラクトに気圧しされ、門番は言葉を飲み込む。
 その様子を見ていたオカリは顎に手をあてて考えるように口を開く。

「彼女は、本物なのね?」

 魔王を迎え撃った、緑の目の魔術師。
 オカリの知る昔話では、デオ・ヒノコに従う事を拒み、単身魔王に挑んだ魔法使いミウ・ナカサ。
 最強と言われながらも、魔王の前にあっけなく敗北した魔法使と同じ瞳の女の子。

「新緑の色はそれだけで力になります。その色を身体に宿しているマツラさんの力は、本物です」

 答えたツツジの声は掠れていた。
 オカリに向かって、マツラが本物だと答える事は、ひどい事のような気がしてならなかった。しかしオカリは満足そうに笑みを浮かべて目を閉じる。

「それは良かった」

 呟いてゆっくりと目を開けた彼女は、そのまま門番のほうを見た。

「そこのアンタ、喜びなさい。緑の目の魔法使いが本物で、魔王とやらが復活しても、アタシは偽物だから昔話なんて再現されない」

 何を心配しているのか知らないが、自分は何もできやしない。
 笑うオカリの表情に、門番の男は「違うんだよ」と眉を寄せる。
 何が違うのか、それは問いたださずにツツジの隣にうずくまるオカリは溜息をついてラクトを見た。

「行くんなら早くして。いい加減、疲れたわ」

 ぶっきらぼうなその声は、確かに疲労の色が濃くにじむ。
 彼女が怪我人である事を考慮すれば、疲れたという表現は今の彼女の状態を現すのにはあまりに軽い単語のようにも思える。

 ラクトが目線で門番を促せば、彼は手元の紙の束をめくり早口に言う。

「魔王の襲来からこっち、ここを通せるのはこのリストに許可の出ている奴だけなんだよ。ついでに行き先まで五老に指示されててな。ラクト・コヒにツツジ・ナハ。お、あったぞ。行き先は……五老の城だ」

 良かったな、と付け加えた門番に、ちょっと待てと制止をかけたのはラクト。
 明らかに顔をひきつらせた相手に向かって、ラクトは不自然な程優しさに満ちた笑顔を向けた。

「もちろん、こいつも一緒に飛ばしてくれるっちゃろ?」
「許可の出てる人間だけって、今言ったばっかりだろう聞いてなかったのか」

 目を合わせないようにしているのが傍目にもわかるほど、門番の視線はせわしなく宙を泳ぐ。
 そんな彼の肩をがっしと掴んだラクトの声は、心なしかいつもよりほんの少し低かった。

「俺と、お前の仲だよな?」
「あのなラクト、僕はだね」
「ん? 僕は、なんだ?」

 妙にゆっくりなラクトの口調と、早口な門番の会話はどこかぎくしゃくしている。
 大丈夫だろうかと見守るツツジの目の前で、ラクトと何度か言葉を交わした門番はすぐに押し切られてしまった。
 かばんから取り出された、小さな包みと引き替えに。

「上で何と言われても、僕は知らないからね!!」

 やけくそ以外の何者でもない言葉のあと、門番は両手に持ったナイフとフォークを顔の高さで軽く打ちつける。
 小さな金属音が響いて、床に光る魔法陣が浮かび上がる。
 展開式魔法陣の時と同じように、足下が抜けて内臓を引っ張られる感覚が襲ってきて、ツツジの耳にオカリの小さなうめき声が聞こえた次の瞬間。

 今度は真綿の布団に飛び込んだような柔らかな衝撃が足にきて、辺りを見れば白い壁の明るい部屋に立っていた。

 到着、と短く告げたラクトが目の前の白い扉に向かう。
 この向こうが五老の城の大広間だと言う彼の言葉に、ツツジは緊張で胸が圧迫されるような苦しさを感じた。

 扉を開ければ、五老と、そして師匠やマツラに会える。
 待ち望んだ再会が嬉しいはずなのに、ついさっき聞いた魔王襲来の報で不安のほうが喜びに勝ってしまっていた。

 詳しい事は何もわからない。
 魔王がダケ・コシを襲撃し、他にも大勢の魔術師がいたにも関わらず、対抗できたのが初級魔術師のマツラだけだった、という事以外は。
 本山の被害がどの程度なのか、マツラは果たして魔王にダメージを与える事ができたのかすら、何も。

「マツラさん、無事でしょうか」

 ぽつりと呟いた言葉に、ラクトは背を向けたまま扉に手を伸ばす。

「それも、開ければわかるやろ。……オカリ、さっきの門番。あいつの反応が大袈裟だと思ったらいかん。ダケ・コシに来た以上、おまえさんは、ある意味今まで以上に武術王と同一視される。覚悟はいいか?」

 移動魔法で再びダメージを受けたらしいオカリが無言のまま青い顔で頷き、ツツジもそれに続くようにして一歩前に出る。

「じゃあ行くぞ」

 重い音を立てて、扉が開く。
 開いた扉の隙間から、密室だった部屋に柔らかな風が流れ込んできた。