それぞれの優しさ

 特に怪我のひどい団員数名を見舞った後、自分の病室に戻ったオカリは、モコウと医者を退室させてからツツジを呼んだ。
 絶対に無理はさせないようにと医者から睨まれたツツジは、ドアを閉めたところで立ち止まった。

 枕を背もたれにベッドに座っているオカリは、口を引き結んだまま睨むように彼を見ている。
 無言の圧力は、彼女の側に近付く事を躊躇させた。
 しかしオカリは僅かに首を傾げる。

「こっちに来て、座って」
「は、はい」

 頷いたツツジがベッドの脇に置かれていた質素な椅子に腰掛けたのを見て、オカリは静かに口を開いた。

「どういうつもりだったの?」

 少しも変わらない表情に、低い声。
 何についての詰問なのか、心当たりがありすぎる。

「どう、って……」

 彼女を止めようとした事だろうか。魔法の事だろうか。
 自分だけが全くの無傷な件かもしれない。
 もしかしたら、気付いていないだけで他にも何かやらかしているのかも。

 そう思うとオカリと目が合わせらない。
 不自然に視線を泳がせるツツジにオカリは続ける。

「あの魔獣を逃がした事。どうして止めたの。自分が何をしたか、わかってる?」

 声に責めるような色が滲み、定まらないツツジの視線が今度は肩より下のほうをさまよう。

「相手は腕一本無くしてるし、足も一本潰れてた。耐え抜けば勝機はあったはず。でも、あんたはとどめも刺さずに奴を帰した。まさかそれが、良い事だと思ってる?」

 答えに困る事ではない。あの時ツツジにはそれしか出来なかった。間違っているとは思っていない。
 なのに向けられる低い声に、まともにオカリを見る事ができなかった。

「……わかってます」
「普通の動物じゃないとはいえ、手負いの獣が森の中で生きていけるとでも? 自分のための狩りも出来ずに野垂れ死ぬのを待つだけ。そこまでは頭が回らなかった?」

 感情の起伏が激しいオカリの淡々とした声は、じりじりとツツジの耳に刺さる。

「でも、みなさんの手当てをする方が大事だと思ったんです」

 顔をあげる事ができず、かろうじてそう答えた彼にオカリはため息をつく。

「ばかじゃない? みんなが何のために戦ったと思ってるの?」

 今までオカリに言われたどの言葉よりも、落胆と呆れがふんだんにまぶされた声。何度も向けられた「ばかじゃない」という言葉が、今日はひどく重い響きでツツジの耳に刺さった。

「逃がしちゃ意味ないでしょ」

 どうしてそんな事もわからないのかと言いたげに首を振る彼女に、でも、とツツジは食い下がる。

「あのままだと、全員が危なかった、と……思います。現にオカリさんだって、こうして……」

 美しい髪は焼け切れた。
 長くすらりとした手足に負った火傷も、完治したとしても痕は残るだろう。
 髪はまた伸びるが、火傷痕が残っては今までのように大胆に脚や腕を出した服を着ることは躊躇われるに決まっている。

 男のツツジでもそう思うくらいだ。
 オカリはもっと切実に、そういう事を感じているだろう。
 が、オカリは顔を曇らせ俯いたままのツツジを見る。

「ツツジが心配なのは、あたしだけ?」

 ひどくもの悲しい声に、釣られるようにツツジは顔をあげる。
 しかし目が合ったオカリは、残った髪の束を摘んで指に巻き付けながら続ける。

「あたしはいいのよ。負けて怪我したって美談になるんだから」

 ツツジのよく知る自信家のオカリ・ユフの声と表情。

「たとえそうじゃなくても、ゼンリたちがそうしてくれるわ」

 彼女の顔に浮かぶ強気な笑みに言葉を無くしていると、「でもね」とオカリは手をおろした。
 指から髪が離れるのに合わせるように、するりと表情が抜け落ちる。

「第三隊は違うのよ?」

 最初部屋に入ってきたときのような、しかし怒りの角が削ぎ落とされた、無表情に似た怒りが、違うものに上書きされている。

「アタシを連れて出て行って、何の結果も出さないで帰ったら。叩かれるのは三隊だって」

 ぽとり、ぽとりと水滴を落とすように。
 オカリの声は水面の波紋のように広がってツツジの頭に届く。

「ねえツツジ、わかってる?」

 どこまでも過剰な自信に満ちた、いつもの口調や表情が嘘のように。
 オカリの声は一切の感情を消してただ室内の空気を震わせた。
 言葉を返す事が出来ないのは、その問いが予想外だったのと、ただただ静かなオカリの表情が怖かったからだ。
 どうにもならない深淵がツツジを見つめているようで。

 口を開きかけても、答えられずに再び閉ざす。
 何度かその動きを繰り返したツツジをまっすぐに見る紅梅の瞳は、ぽとり、ぽとりと声をこぼす。

 初陣で傷ついて帰ってくる女の子なんて、格好の話題。
 オカリ・ユフは善戦したが、その力及ばず敗北を喫した。次の勝利を誓った彼女は、闘志に燃える。

 ありきたりな物語のようなシナリオ。
 けれどツキサの人々はその話に熱狂するのだ。
 なぜなら、オカリは武術王デオ・ヒノコを思わせる美しい金髪に春告げの紅梅の瞳を持つ、勝利の乙女だから。

 組立てあげられた肩書きは伊達じゃない。それだけの効果を発揮する。
 それよりもみじめなのは、勝利の乙女と共に任務に出た第三隊だ。
 今までの栄光は光を失い、彼らを見る人々の目は冷たいものになる。
 オカリと共に任務にあたりながら、魔獣を捕らえる事も殺す事も出来なかった上、彼女に怪我を負わせて帰ってきた負け犬だと。

「あたしは、三隊をそんな目に遭わせるためにここに来たんじゃない」

 だから怪我をしてでも、勝たねばならなかったのだ。
 腕じゃ足りない。
 隊長であるモコウがそれでいいと言ったとしても、本体が無ければ意味がない。

「なんでそんな事もわからなかったの? 挙げ句獲物を逃がすなんて、最悪だわ。ツツジ、あんた、最低よ……」

 どうしてこんな事を言わせるの。
 数秒目を伏せたオカリは再びツツジを見つめ、ベッドの上の身体をずらすとゆっくりと伸ばした手で彼の腕を掴んだ。

「あんたがやったのは、とても残酷な事よ。三隊にとっても、あの魔獣にとってもね」

 ツツジの目を覗き込んだオカリは「ツツジは嫌かもしれないけど」と前置きして、負傷した団員に声をかけた時のような、静かで優しい声で言い聞かせるように言う。

「命を奪う事が優しさになる時もある。あれは、もう自力じゃ生きていけない。遠からず死ぬのなら、私たちの戦果になるほうがずっと良かった」

 最初から思っていた。
 ツツジは優しい。優しすぎる。
 オカリの周りにいる誰よりも弱く、争いを嫌う。
 ツツジ・ナハというのは、そういう人間だ。
 武勇に重きをおくグランディスという地におおよそ似合わない彼のいいところは、おそらくそこにある。

 だが。

「思いやりと優しさは全然違うのよ。あたし達、今回の任務は最悪の終わり方をしてる。あんたがあの時、魔獣に最後の一撃をくらわせてたら、結果は違ってた」

 自分を見つめる紅梅の瞳に、ツツジは言葉をなくして固まる。
 ツツジが魔獣を攻撃できるかと言えば、それは全くの問題外だった。
 そして彼は、赤毛の獣を殺す事ではなく村の医師を呼ぶ事を優先した。それしか考えられなかった。

 少年の正義は、決して魔獣を攻撃する方向には向いていなかった。

 今更、誰が何を言っても遅すぎる。
 三隊は動ける人間だけでツキサに帰る事が決まり、戦果として赤い毛に覆われた魔獣の腕を持ち帰る事になっている。
 ツツジは王都ツキサに戻った第三隊が街の人々にどう迎えられるか、考えたくなかった。

 彼らは決して手抜きして任務にあたった訳ではない。
 オカリの予想が外れて、どうか彼らを迎える視線が暖かいものでありますように。
 ここには、目を背けたくなるものがたくさんある。
 見たくないのに、考えたくないのに、目の前に現れては目を背ける事を許さない。
 考えれば考えるほど、答えの見えない闇が広がる。
 そういう物とどう向き合っていけばいいのか、ツツジにはわからなかった。

 黙ったままオカリの視線を受け止め、石になったように動かない彼の腕を解放したオカリは「もう戻っていいから」と告げると窓のほうへ視線をそらす。
 ツツジは暗い顔のまま、静かに椅子から立ち上がりドアに向かう。
 退室しようとする背に投げられた言葉。

「でも、ありがとね」

 短く澄んだ声に思わず振り向いてオカリを見れば、毒のない微笑みがあった。
 彼女の一言に、すべて救われる。
 その気持ちが、ツツジにも少しわかったような気がした。