負傷の乙女と聖女の風格

 オカリをはじめ、火傷を負った団員が数名。
 それ以外の怪我人もいる。
 火傷の傷はすぐに冷やさなければならない事は知っていたが、側に川があるわけでもない。
 冷やすための物は何も持ち合わせていなかった。

 代わりに、ありったけの力をこめて握りしめているラケット。
 魔法を使えば水も氷も用意する事ができる。
 辺りは暗く、魔法を使っても気付かれない可能性も高い。
 しかし、すぐにでも手当が必要な人間は何人もいる。助けを呼びに行かないといけない。

 目の前の惨状はツツジの手に負えるものではない事は明白だった。
 不慣れな応急手当を施す暇があれば、医者を呼びに行った方が早いのかもしれない。

 何をすれば最善なのか、どうする事が一番いいのか。

 決める事ができず、ツツジはいつもそうしていたように、オカリを見た。
 今まで、判断に困った時は彼女が指示を出してくれた。彼女の言うようにすれば、なんとかなった。
 少なくとも、大きく道を外れる事は無かった。
 しかし地面に膝をついたオカリは血の気の無い顔で痛みに耐えるように唇を噛んでいる。

「お、オカリさんっ……!」

 名前を呼べば紅梅の瞳がツツジを見るが、どこか定まらない視線にどうしようもない不安でいっぱいになる。
 今にも倒れそうなオカリに「大丈夫ですか」と腕を差しだそうとして、その焼けた肌が目に入り思わず固まった。

 触れない。

 今の彼女に触れる事は、ひどく恐ろしい。自分にはどうしようもできない、隠す事のできない怪我を負ったオカリの身体に、たとえ指先だけだったとしても、触れる事は恐ろしい。
 そして何より、こんな状態のオカリを頼る事はできない。彼女を助けるのが、今の自分の役目だ。
 口の中に溜まった冷たい唾を飲み込んで、震える声を絞り出す。

「すぐ、人を呼んで……きます」

 その言葉に、微かにオカリが頷いたような気がした。
 村のほうへ駆け出そうとした所で、ツツジはとっさにポケットに手を突っ込むと、ハンカチを引っ張り出し、一瞬だけ見つめる。
 これは何よりも効くおまじないで、精霊の加護のついた物だ。
 持ち主を必ず守ってくれる。

 意を決し、握っていたラケットの先で軽く触れると、細やかな刺繍の施されたハンカチは、ツツジの手の中で冷たく濡れる。

「持っててください。何の意味も無いかもしれませんが」

 布に湧き出る水は乾くことはない。
 たったこれだけの量では気休めにもならないが、それでも無いよりはましかもしれない。

 一瞬躊躇ったあと、息を止めてオカリの手をとり、それを握らせる。浅く早い呼吸を繰り返している彼女の反応を見る余裕は無く、ツツジは一目散に駆け出した。

 刺繍に込められた魔法は、その効果をいかんなく発揮して持ち主であるツツジを守ってくれた。

 戦いの勝利と旅の安全。

 この国で起こる全ての事が、ツツジにとっては戦いだ。
 しかし、彼よりもさらに自分の戦いに勝利を望む人がいる。より、このまじないの加護を受けるにふさわしい人が。

 彼女は魔術師を信じていないから、きっと精霊も信じない。
 魔法も不可解な憎むべきものだと主張しているが、信じる信じないや魔術師及び魔法に対する憎悪に関係なく、行使された魔法は効果を発揮する。
 妹弟子の魔法は、間違いなくオカリを守ってくれるだろう。

 負傷者を含め、今回派遣された全員が村に集まった時には第三隊の撤収は決まっていた。
 動けない者はこのまま村に置いて帰るしかない。
 彼らの回復を待つには時間がかかる。今は安静が必要でも、回復次第ツキサへ帰ってくればいい。

 動ける団員たちを集めて今後の対応を話すモコウは、幸いにも打撲で済んだらしい。
 抜け殻のようにぼんやりと聞く彼の話は、ツツジの耳から耳へと流れ出ていく。
 森での出来事が嘘のように、村の夜はゆっくりと平穏に更けてゆく。
 さっきまで自分がいた場所は、あの殺伐とした時間は、一体何だったのかと思わずにはいられない。
 そして確かに彼らと同じ場所にいたはずなのに無傷の自分は他の団員たちと一緒にいてはいけないような気がした。

 一方で気になるのはオカリの容態で、診療所へ運び込まれた彼女に付きそう事が許可されなかった事は、果たして幸運だったのか不運だったのか。
 血の気のないオカリの顔と焼けただれた傷を思い出すと、ツツジの身体はまだ震えそうになる。

 負傷した他の団員たちが悲鳴や呻き声をあげる中、彼女だけは真っ白な顔で唇を噛みしめ、真っ赤な目でひたすらどこかを睨んでいた。
 傷は、痛みに耐える事が出来る域をとうに越えているはずで、なのにオカリは声ひとつあげない。
 尋常じゃないその様子は、駆けつけた医師も一瞬言葉に詰まる程で、そんな彼女の目がはっきりとツツジを見たのは、診療所へ入る直前。
 何かを問うような視線はすぐに逸らされ、それでも彼女の手には例のハンカチが握りしめられていた。

 いつまでたっても水を含んで乾かない布。
 絞ってみれば沸くように水分が染み出してくる現象を、いくら普通の状態ではないとはいえ、不思議に思わないわけがない。
 そのとき、何と答えれば彼女は納得してくれるのだろうか。
 全く答えの見えない問いがぽかりと胸に浮く。

 今はそんな事を考える時ではないと思うも、遠くない未来で向けられるであろうその問いは、魔術師であるツツジにとっては大きな、大きすぎる問題。
 真実以外でオカリが納得するような返事を用意できる自信がない。
 本当の事が知れればどうなるかなんて、想像に易い。

 ぼんやりと立ち尽くすツツジの肩を叩いたのはモコウだった。
 大丈夫か、と向けられた言葉に力無く頷けば、「ならいいが」とモコウの心配そうな目が向けられた。

「重傷の怪我を負った奴よりも、お前のほうがひどい顔をしている」

 魔獣はそんなに恐ろしかったか、と続けられた言葉にツツジは返事をする事ができなかった。
 言葉に詰まる様子が、よほどショックを受けているように見えたのか、今日はもう休むように言い残すと、モコウは他の団員たちのところへ行ってしまった。
 大きな後ろ姿をぼんやり見送りながら、ツツジは彼らの言葉を思い出した。

 モコウたちは、これまでも魔獣を相手に苦戦を強いられた事は何度もあったと言う。
 怪我人を出した事も一度や二度ではない。その後の戦線復帰が叶わなかった仲間もいる、と。
 第三隊は魔獣狩りで最も成果をあげていると言われている。
 それだけ彼らは傷を負い、血を流し、時に共に戦う仲間と道を分かちながら、対魔獣の戦い方を詰めていったのだ。
 成果とはそういう犠牲の上に積み重ねられるものであり、だからこそ彼らは言う。

「次は勝つ」

 到底真似できない考え方だ、とツツジは再び揺れ始めた視界を拭った。
 次は勝つ、と言う彼らが今回ツキサに帰る事を決めた。
 他ならぬオカリがいるから。
 オカリに無理はさせられないと、この決断を下したモコウに異論を唱える者はいなかった。

 次の日、ベッドの上でその話を聞かされた当の本人であるオカリ以外は。

 帰るなんてあるか、と怒鳴った声は廊下まで響き渡った。
 その言葉を向けられているのは、たった今オカリのいる病室に入っていったモコウに違いなく、ツツジは病室の入り口に立って、ドア一枚隔てた向こうの声に耳を澄ませた。

 と言っても聞こえてくるのはオカリの高い声だけで、モコウの声は殆ど聞き取れない。
 烈火の如く怒り狂ったオカリの、一方的な怒鳴り声だけが鮮明に聞こえてくる。

 絶対にあの魔獣を殺す、それまでは帰るなんてあり得ない。
 左腕一本で満足して帰るなんて許されない。私は認めない。

 それに対してぼそぼそと何か答える気配はするが、ドアに耳をつけてもモコウの言葉はその中身までは聞き取れなかった。
 ただ、モコウが何か答えるごとにオカリの怒鳴り声の間隔がだんだん長くなり、その声も徐々に低くなる。
 やがて怒鳴り声がすっかり聞こえなくなってからしばらくして、簡素な木のドアが開けられた。

 出てくるのはモコウだけかと思いきや、彼に支えられるようにしてオカリも出てくる。
 その姿に、ツツジは思わず言葉をなくした。

 今まで無造作に耳の下で縛っていた長い髪が、左右不揃いな長さに切られてしまっている。
 特に右側がひどい有様で、胸の下まであったはずの髪は肩の下あたりまでしか残っていない。

「髪が……」
「なんて顔してんの」

 呟いた言葉に顔をしかめて、オカリは「焦げたのよ」と低く答える。
 彼女のゆったりとした病衣の下がどうなっているのかは、あまり考えたくなかった。

 オカリは顔をしかめたまま、立ち尽くしたツツジに「後で話がある」と言い捨てると、モコウに支えられながらたどたどしい足取りで別の病室に向かった。
 そこは一番重傷の怪我を負った団員が寝かされている部屋で、オカリたちの後をついて行ったツツジは、部屋の入り口で立ち止まる。

 中に入る勇気は持てなかった。

 仮にその病室に踏み込む勇気があったとしても、戦いもしなかった身でその中に入る資格は無いように思えた。
 ベッドに横たわる瞳に生気はなく、にごった目がぼんやりとオカリとモコウに向けられるのが見えた。
 ゆっくりと彼に近づいたオカリが、やんわりとモコウの支えを断り静かな動きでベッドの脇にたどりつくと、包帯の巻かれた手を取る。

「私が、わかるかしら……?」

 静かな、優しい声が死の臭いの満ちた部屋に溶けた。
 それだけで室内の空気ががらりと変わるような錯覚に、ツツジは息を飲んでオカリの横顔を見守った。

 ツツジから見えない角度で、横たわる男の目が僅かに揺れる。
 問いの答えはそれだけでじゅうぶんだった。
 彼は、オカリをオカリだと認識している。

「今はゆっくり休んで。私は、またあなたと任務につける日を待っているから」

 今までにツツジが聞いた事もないような、どこまでも優しく暖かい声でオカリは言う。

 次は必ず勝利を収めましょう。

 その言葉に、穏やかに目を閉じた彼の額にそっとくちづけるオカリの姿は、確かにその室内にあって神聖な、不可侵な物だった。

 彼らは、オカリがいれば救われるのだ。

 ツツジは目を伏せながら理解する。
 オカリ・ユフという少女により、彼らは救われている。
 赦されている。
 グランディスにおける絶対的正義、武術王を彷彿とさせる少女。
 彼女に赦されるために、彼らは、彼らの信奉する武術王デオ・ヒノコと同じ姿の少女を勝利の乙女として奉ったのだ。
 彼女に救われるために、彼らはオカリのいるツキサに帰らなければいけなかったのだ。

 生きるものを殺める行為、理由のわからない不安、個の正義に反した行為、無事に帰ってきた安堵に対する後ろめたさ、明日がわからない恐怖、あらゆる、全てのものを。「それは正義である」と肯定し、赦し、救うために、フリューゲルに必要な存在。

 オカリが手をとり、ひとつ頷けばそれだけで彼らは救われる。
 ここに残される事になっても、共にツキサに帰る事になっても、オカリの救済は彼の心に安らぎを与えるのだろう。