赤き獣の咆哮

「躾がなってないわね」

 まるで巨大な熊のような魔獣を睨みつけながら、オカリは低く言った。
 らんらんと輝く瞳を敵に向けたまま、彼女はツツジを呼ぶ。

「ツツジ! 矢をちょうだい!」

 名前を呼ばれ、ツツジは転びそうになりながらオカリのもとへ駆け寄ると、彼女の腕を掴んだ。

「て、撤退しましょう! 無理です!!」
「ばか言ってんじゃないわよ」

 いいから予備の矢をよこせ、とツツジを振り払ったオカリは、まだ残っていた弓を引き絞る。

「あたしがいるのに、何の成果も得られずに帰るなんて……できる訳ないでしょ!!」

 言い放つと同時にオカリの手を放れた矢は、魔獣の足下に刺さる。
 怒りの眼が二人のほうを向き、その巨体がゆらりと動き、オカリは口元だけで笑う。

「いいわよ。こっちに来なさい。あんたと違って、アタシはまだぴんぴんしてるんだからね」

 挑発する言葉に青ざめるツツジから目的のものを取り上げるようにして奪うと、木の間を駆けながら次々と威嚇のための矢を放つ。

「動ける奴はいないの!? 砲弾の準備をしなさい!!」

 叫ぶ彼女の言葉に、ツツジはとっさに砲兵のいた場所に目を走らせる。
 負傷した隊員の側に投げ出されたその道具は、火と火薬を使用する。
 強力な武器は魔獣に傷を負わせる事ができるが、今相対している赤毛の熊は火の魔法を使うのだ。

 火の魔法が、そちらに向かえばどうなる?

 頭の中で警鐘が鳴るのと、走り寄った隊員が筒状の武器を手に取り発砲の構えをとったのは同時だった。
 魔獣はオカリの動きを目で追い、絶えず放たれる矢に苛立ちを感じているようだった。
 最初のように矢を燃やすような魔法はまだ使っていない。

 早くしなさい、とオカリが再び叫び、答える声があがった。

「三発目、いけます!」

 絶対外すな、と言い返したオカリが相手の場所を確認する。
 魔獣を真ん中に挟むようにオカリと砲銃が一直線に並んだ場所で、オカリは足を止めた。赤い獣の視線はオカリの方に向いて、低い唸り声をあげている。

 紅梅の瞳と赤い眼が一瞬睨みあった次の瞬間。
 その場の誰よりも通る声で、他の音全部をかき消すように、オカリは叫んだ。

「撃て!!」

 だめだ、と声に出す事ができなかった。

 ツツジは、オカリや他のフリューゲルの団員たち、そして赤毛の魔獣の動きを目で追うのが精一杯で、重要だと思った事は何も口にできなかった。
 ただ、目の前の世界がひどくゆっくり動いたように感じる。

 三発目の砲弾は放たれ、その音に振り返った魔獣の赤い毛が逆立ち、森の木々を揺らした咆哮が終わる前に、筒状の武器と魔獣に届く寸前だった砲弾が爆発した。

 世界中の全てを揺らすような、大きな大きな音がして辺りを熱風が襲う。
 頭を守るように腕でかばい、音を失った耳が元に戻り、熱が弱まるのを待ってから目をあげた。

 最初に聞いたのは隊員の呻きと魔獣の吠える声。視線を動かせば、爆発の直撃を受けた団員が血だらけで地面に伏していた。
 耐えきれずに逸らした視界の隅に、今度は赤い獣の腕が転がっている。

 喉までせりあがってきた悲鳴をすんでのところで呑み込んで、代わりにツツジは地面に座り込んだ。

 赤く濡れる血も、かつて何かの身体の一部だったものも、苦痛に呻く声も、この場を支配する何もかもが、恐ろしい。
 寒くもないのに鳥肌がたつ。
 歯の根も合わないほど身体が震える。
 最終手段のはずの、逃げ出すための足もたたないほど、恐ろしい。
 あたりには夜の闇が迫りつつあり、それが余計に恐怖を呼ぶ。

 この場から逃げ出したい。一刻も早く、恐れる物が何もない場所へ行きたい。
 自分を大切に見守ってくれた、師匠やその奥方、そしてこれから大きく成長するであろう妹弟子のいる、フィラシエルのあの山に、帰りたい。
 ここにいて、誰かが、何かが、傷つけあうところなんて、見たくない。
 見たくなんか、ないのに。

 空気を切る音。それに続いたのは、オカリの声だった。

「よくも……やったわね」

 オカリは汚れた顔で苦痛に暴れる魔獣を睨むと弓を引き絞る。
 相手を逃がすまいとする視線には殺意すら込められていて、ツツジは自分の身体がこわばるのを感じた。

 オカリを止めなければ。

 もはやダメージも負っていない団員のほうが少ない。何より、早く手当をしなければならない重傷の人間がいるのだ。

「オカリさん、やめてください」

 冷え切った手を握りしめて、やっと口にした声は情けないほど震えていた。掠れたツツジの声はオカリの耳には届かない。
 闘志に瞳を煌めかせ、凛とした表情で炎色の獣を狙う彼女の姿はどこか現実離れしていて。確かにツキサの人々が言うように勝利の女神や戦いの聖女と呼ぶに相応しい。

 だが、ツツジは今の彼女を見て同じように思う事はできなかった。
 周囲の惨状に耐えられないツツジには、倒れている仲間を顧みる事無く敵だけを見るオカリが理解できなかった。
 これまでも、じゅうぶんに彼女の事を理解できたとは言えなかったが、今のオカリを見ているとオカリ・ユフという人間の事がいっそう解らなくなってしまった。

 オカリは自己中心的なところがあるが、決して自分を慕ってくる相手を蔑ろにするような人ではなかったのに。
 だから、街へ巡回に出ても、いつも声をかけてくれる相手の事は名前までちゃんと覚えていたし、同じように彼女に憧れているフリューゲルの隊員にも、時にはゼンリやオーキと話す時よりも、オカリにしては誠実な対応をしていた。

 なのになぜ、今この局面でまだ戦うほうの選択肢を選ぼうとするのか。

 こんなのは自分の知っているオカリじゃない。彼女を止めて撤退しないと、本当に団員の誰かか、赤毛の魔獣のどちらかが死んでしまう。
 それだけは回避させないと。

「やめて、ください」

 繰り返した言葉は、虚しく消えた。
 冷えた指に力をこめ手を握る。
 塞がれたように苦しい喉を、意識して開く。
 爛れたような空気を吸い込んで、ツツジは意を決した。

 オカリが番えた矢が放たれる前に、その行動を阻止できるのはこの場でツツジの他にはいない。
 勝利を呼ぶ乙女には、誰も逆らえない。
 しかしツツジにとってのオカリは勝利の乙女でも、ましてや女神でも聖女でもない。
 彼女は雇用主であり、人より強くて自信過剰で扱いにくい、けれど不思議と頼りになる友人だ。
 友人が残虐な行為に走ろうとするのを止めるのは、間違いではないはず。

 ツツジは弾かれたように地面を蹴った。
 一瞬の眩暈。しかし怯まずに足を踏み出す。
 躍り出たのはオカリと赤毛の魔獣のちょうど間。

「オカリさん、やめて!!」

 大きく声を張り上げたとき、オカリのもとからきらりと光る刃が放たれた。

 それを認める暇も視力も無いはずなのに、瞬間ツツジはとっさに背負った荷物から媒介を取り出すと大きく一閃させた。
 暗闇の迫る森、高い音を立ててはじかれた矢に、オカリは一瞬目を見開く。

「なにを、したの」

 低い問いに、答えたのは青ざめた顔のツツジではなく、その背後の魔獣。
 吠える声が森に響き、ゆっくりとそちらを振り返ったツツジは、魔獣に残されたほうの爪が自分に振り下ろされる事を覚悟した。

「どきなさいツツジ!!」

 が、魔獣が動くより先にオカリの声が飛び、矢が放たれる。
 反応する間もなく空中で矢じりが爆ぜた。炎と熱を孕んだ空気はツツジを避けるようにオカリのほうへ押し寄せた。

「オカリさんっ!?」

 あがった悲鳴に名前を呼んで駆け寄り、火のついたオカリの服をたたく。
 泣きそうになりながらオカリについた火を消そうとするツツジの耳に、再度魔獣の声が聞こえた。
 敵意を持った咆哮でも苦痛に啼く声でもなく、ただひたすらに哀しい、胸が締め付けられるような遠吠え。
 はっとして目をやれば、赤い眼がじっとツツジを見ている。

「か……帰ってください、山に」

 唾を呑みながら震える声でかろうじて向けた言葉は、果たして通じたのだろうか。
 もう一度遠吠えを残して、魔獣は足を引き摺りながら闇に染まった森へ向かう。

 ばか言ってないで追いかけて、と呻いたオカリも立ち上がれるような状態ではなかった。
 残されたのは、負傷した隊員たちの苦しむ声と、血の匂いと火薬の匂い。
 そして確かに魔獣に傷を与えたのだという証の、炎のように赤い毛皮に包まれた魔獣の左腕。

 誰もが、何かしらの傷を負っていた。
 ツツジを除いて、全くの無傷と呼べる人間はいなかった。
 訳がわからないままに溢れてくる涙を拭いながら、ツツジは思わずにはいられなかった。

 いつどんな怪我をしてもおかしくない状況で、自分は妹弟子の魔法に守られたのだ、と。