熱に満ちた夜の森にて
ツキサを出発して四日後に、目的の町に到着した。
王都から離れた町や村にもフリューゲルやオカリの名は届いているらしく、途中立ち寄った町や村でも熱い歓迎をされたが、ここではさらに熱烈な歓迎を受けた。
到着したその日には、町長の家で歓迎の宴が催され、ご馳走が振る舞われた。
遠巻きに彼らを見守る人々に向かってオカリが笑みを投げかけると歓声があがり、その後は彼女の一挙一動に対してわっと歓声があがるような有様。
彼女はツキサを出ても変わらずに人々の中心に収まっており、改めてオカリ・ユフという人は笑顔一つで相手を魅了できる特別な人間なのだと思わずにはいられない。
件の魔獣は町から少し離れた森に出るという。
初日は町のほうに泊まった一行は、次の日から森のはずれで野営をしながら魔獣が出てくるのを待つ事になった。
事前に得た情報から、十日も待てば魔獣に遭遇できるだろうというモコウの読みは正確で、町に到着してから三日後の夕暮れに、森を巡回していた団員が魔獣に遭遇した。
連絡に走ってきた団員と共に夜の迫る森を駆ける。
馬に飛び乗ったモコウが指示を出し、それを聞きながらオカリは自分の準備を整え、慌てるツツジを引っ張りあげるようにして自分の馬の後ろに乗せた。
「ぼさっとしない! 矢は持ってくれた? なら行くわよ。しっかり捕まってなさい!」
目で確認しながら、ツツジの答えを待たずに頷いたオカリは強く馬の腹を蹴る。
急すぎる加速と身体に直接響く激しい揺れに、ツツジは思わずオカリの腰に手を回しその言葉の通りにしっかりと捕まった。
流れていく木々に思わずきつく目を閉じると、すぐそばからオカリの声が降ってきた。
「わかってると思うけど、ある程度近づいたら馬は降りるから。遅れずについて来るのよ。でも危険だと思ったら隠れてて。あたしはツツジがいなくても何とかできるから」
少し早口の、けれどいつもとそう変わらないオカリの声。
「ず、ずいぶん落ち着いてるんですね……」
逆にツツジの声はこわばって青ざめている。絞り出すようなツツジの声のせいか、それとも別の理由か、目をあげて伺い見たオカリは正面を向いたまま口元だけでにやりと笑った。
「当たり前じゃない」
風になびく柔らかな金の髪がツツジの頬を撫で、後ろを振り返らない紅梅の瞳が少し細められる。口角をあげたオカリが続けた言葉に、ツツジは一瞬その意味がわからなかった。
初めてじゃないもの。
それは気のせいでも聞き間違いでもなく。確かにオカリはそう言った。
今回がオカリの初陣だと、そう聞かされていたのに。
しかし口にしようとした疑問は、無駄口を叩く暇があるなら前を見ていろというオカリの言葉と、森に響いた獣の吠える声に遮られた。
人がよく立ち入り手入れのされている森とそうでない森の違いは大きい。
今ツツジの立つ森は前者で、木の枝は程良く切られ適度に日光が差し込むようになっている。下草も刈られているし、誰が見ても明確にそうとわかる道がある。
しかしそれも日中の明るい時間に実感できるもので、いくら樹木や枝の密度が低いとはいえ辺りが夕焼けに染まる今の時間ではあまり意味を成さない。
そして森の中に現れたのは今の夕焼け空よりもなお赤い、炎を溶かし込んだような赤毛の獣。
姿は熊に似ているが、その身体は熊よりひと回りもふた回りも大きく、鋭い爪は熊の比ではない。
かつてツツジを背に乗せてくれた金色の魔獣のように空を飛ぶための翼は持ち合わせていないようだったが、代わりに太く逞しい四本の足を持っていた。
フリューゲル第三隊にぐるりと囲まれた赤い魔獣はうなり声をあげて彼らを威嚇する。
先に動いたのは第三隊のほうだった。
モコウの合図で網が放たれ、魔獣の上に落ちる。
まずは相手の動きを鈍らせる作戦。網に絡め取られた魔獣は、怒ったように吠え、辺りの空気を震わせた。
一番後ろから見守るツツジは、まるで固まったように動けない。
とうとう始まってしまった。
じわりと額に汗がにじみ、握りしめた手は小さく震えている。
出発が決まった日、ラクトと話していたようにあの赤毛を逃がす事ができるのか?
破裂しそうなほど脈打つ心臓に浅い呼吸を繰り返しながら、ツツジは魔獣を取り囲む人間の中で矢をつがえたオカリを見た。
まっすぐに獲物を見る紅梅の瞳がきらめき、最初の一矢が宙を走る。
まるで吸い込まれるように魔獣の首もとに飛んだ矢は、赤い毛皮の中にその矢尻を食い込ませた、ように見えた。
しかし大きく体を震わせた魔獣の動きに、命中したかに見えた矢はぽろりと地面に落ちる。
ツツジにはそれを見たオカリの舌打ちが聞こえたような気がした。
矢を放て、と号令を下したのはオカリだったかモコウだったか。極度に緊張していたツツジは、よくわからなかった。
ただ、再びオカリの放った矢と、他の団員たちの放ったたくさんの矢が魔獣の赤い毛皮に届く寸前。
それまでよりも大きな声でひと吠えした魔獣の目が毛皮と同じ色に煌めき、宙を疾る刃が一瞬でその速度を失い地面に落ちた。
説明し難い現象が魔法であることは間違いなく、団員たちに一気に緊張が走る。
その瞬間も再度矢が放たれ、網の下の魔獣がもがくように腕を振ると、今度は何の前触れも無しにその矢に火が灯り燃え落ちる。
魔法に対する備えが無ければ、魔獣に勝つことなどできない。
背後の木にぴたりと背中をはりつけて魔獣と第三隊の戦いを見ていたツツジは小さく首を左右に振る。
それじゃあ魔獣には勝てない。
しかし魔獣を狩るという使命を持つ人々は諦めず、今度は魔獣正面の団員が矢を放つと同時に槍や剣を持った他の団員が背後から獲物に飛びかかった。が、彼らの目の前で、再び飛んだ矢は消失すし、今度は魔獣を拘束していた網までも焼き切れる。
それでも魔獣に向かっていった団員は怯む事無くその刃を突き立て、後ろ足で立ち上がった赤毛の巨大な熊が悲鳴のような声をあげる。
どうやら背後から飛び込んだうちのいくつかが、相手に傷を負わせる事に成功したようだった。
赤毛の魔獣は見た目の通りに炎の魔法を操るようで、暮れていく森の中でその身体はぼんやりと赤く光を放ち、その周囲は夏の陽炎のようにゆらめいた。
ふわりとツツジの肌をかすめた風が熱を帯び、その熱さとは反対にツツジは冷たい手に背筋を撫でられたように身体じゅうに鳥肌がたった。
思わず身体をかき抱いた視線の先で、魔獣が大きく右腕を振り払い数名の団員が森の奥へ飛ばされる。
「大丈夫か」という叫び声と同時、ツツジの背後で爆発にも似た大きな音が響き、魔獣の足下の地面が爆ぜた。
とっさに振り向いた森の中、後からやって来た団員が担いできたのは火薬を使って小型の砲弾を飛ばす武器。
響きわたる獣の咆哮に再び魔獣へ目をやれば、抉れた地面の側で苦しそうに暴れていた。
さっきの砲弾で負傷したらしく、地面には血の痕。左の後ろ足は無惨にも先のほうが潰れている。
とっさに口元を押さえたツツジは思わず自分の見たものから顔をそむける。
もしも背中にこの木が無かったら立っている事もできなかったかもしれない。
団員たちのほうは届いた援軍でさらに勢いづき、タイミングを見計らいながら痛みに吠える魔獣に切りかかっている。
魔獣は魔法を使って応戦する余裕が無いのか、放たれた矢がいくつか刺さっているのが認められた。
魔獣狩りにおいて、フリューゲルは毒矢も使う。
事前に教えられていたが、それがどんな毒なのかはツツジも知らない。
しかし、今痛みにのたうっている赤毛の魔獣に向けて飛んでいる矢にも毒が塗ってある事は間違いなく、苦しげな魔獣の声と、背後で二発めの砲弾を用意する声にツツジは首を左右に振った。
「やめ、やめてください……」
震える声は誰の耳にも届かない。
「やめて……」
かすかに漂う火薬の匂いと血の匂い。
街のざわつきとは違う、頭が痛くなるような争いの喧噪。
二度目の砲弾を放つ合図の声があがる。
見たくない。そんな道具、使ってはいけない。
「オカリさん、止めてください」
貴女なら、それができる。
彼らを突き進めさせる事も、止める事も、オカリにならできる。
けれどツツジの声はオカリには決して届かない。
手負いの、それでもまだ脅威を失わない獣をひたと見据え弓を引き絞るオカリは、砲兵のほうを見る事無く言い放った。
「撃ちなさい!!」
よく通る芯のある声。間髪入れずに響いた大きな音。
そしてその瞬間、それまで地面で暴れていた獣が跳躍した。
撃たれた砲弾はそれまで赤い獣がいた場所に落ち、地面を抉る。
宙に跳んだ赤い影は自分の着地点に砲兵の場所を選んだ。
悲鳴を上げる彼らに向かって振りおろされる、ナイフよりも鋭い爪。
大きな背に向けられた攻撃は、振り向きざまの太い腕のひと薙ぎで阻まれた。
続く攻撃を待たずに、再び魔獣は地面を蹴る。
負傷したはずの後ろ足を感じさせない動きに団員たちが一瞬怯んだところを、その獣は見逃さなかった。
赤く燃える眼が捕らえたのは、彼らの隊長。
振り下ろされる太い腕の鋭い爪を、モコウはとっさに剣で捕らえた。
しかし獣と人間の力勝負で招かれる結果は明白。
鋭い爪が彼を引き裂くのだと誰もが思ったとき、辺りの空気が一瞬熱を帯び、次の瞬間モコウの剣は飴細工のようになめらかに曲がった。
そしてモコウの目が驚きに見開かれた瞬間、彼と対峙していた獣の腕が一閃してその体が数メートル飛ばされた。