棘と冷気を纏う男
積み重ねられた紙の束に少々雑然とした印象を感じた。
ゼンリに通された部屋にあった重厚な机とはうって変わって、オーキと向かい合って座った机は簡素な作りのごくシンプルなものだった。
壁際の棚にも装飾はなく、使い勝手だけを考慮しているように見える。
オーキ・シンは、事務的な口調でフリューゲル内の注意事項を伝えると、ツツジの仕事について説明を始めた。
「今まで、オカリ様の身の周りの世話は私がしてきました。これからは貴方の役目ですから、心して職務を全うするように」
朝はオカリが起きるよりも先に、オカリの自室の前で待機する事。身支度が整えば朝食になるが、食事は食堂に用意してある。
食堂は他の団員もいるが、オカリの席は一番奥の角の席だと決まっている。その席には決まって黄色いユリの花が活けてあるから、間違えようもない。
朝食には必ず卵とベーコンが付いてくる。パンに添えるのはバターの他にジャムも悪くない。
しかし機嫌を損ねたくないのならオレンジマーマレードだけは出さない事。彼女はマーマレードジャムが嫌いなのだ。
朝食の後は、オカリも他の隊員のように訓練に入るか午前の巡回に出る。
どちらに付くかはその日の彼女の気分やゼンリの指示で決まる。
巡回に出たまま午後まで戻らない時は食堂で弁当を用意してもらうように。
「もちろん、巡回には貴方も付いて行って頂きます。武器をはじめ、オカリ様の荷物を預かるのが貴方の仕事ですから。万が一、彼女になにかあったときは、身を挺してオカリ様を守るように。そして、そのための鍛錬を怠らない事。ゼンリ様にも言われたように、貴方は自らを鍛える必要があるようですから。オカリ様の鍛錬の時間はそちらのほうに力を入れなさい。私は自分の仕事を片づけていましたが、貴方はどうせ暇なのでしょう?」
皮肉のこめられた言葉に、ツツジは口を結んでじっと相手を見た。
ちくちくと肌を刺すように散りばめられた棘を巻き付けた、冷たく突き放す口調。
何も答えないツツジに、口元に冷えた笑みを張り付けたオーキは続ける。
「当然ながら、フリューゲルにはオカリ様より強い男はじゅうぶんにいます。反対に彼女と模擬試合をして負ける人間も大勢いる。貴方は、そんな彼らにすら届かない。……喧嘩のひとつも経験した事が無いのでは? それでよく、オカリ様の供人などになろうと思ったものだ」
額に手を当てたオーキは信じられないとばかりに首を左右に振ると、手袋をした指先でトントンとテーブルを叩き始めた。
「ぼんやりと彼女の後ろで荷物持ちをするだけなら、どんなでくの坊にだってできる。しかし、貴方が仕えるのは我々フリューゲルの聖女でもある方。オカリ様に恥をかかせるような事は絶対に許されない」
わかっているのか、と向けられた問いにツツジはひとつ頷く。
「もちろんです」
オカリ・ユフという少女は、崇拝されている。
フリューゲルの人間だけではない。
この街の人々に。
神聖視しているのか、単に見目麗しい少女の登場に士気があがっているだけなのか。
おそらくその両方なのだろうが、どこか盲目的にも感じたあの広場の空気に包まれた後では、同意しない訳にはいかなかった。
オーキはオカリの事を聖女だと言ったが、正しくは違うだろう。
彼女は聖女という言葉から受ける神聖で静粛な雰囲気からはかけ離れた、活発で華やかな印章のほうが強い。
しかし、フリューゲルの目指す「魔獣を駆除した平和な国」という目標に向かって彼らを牽引する象徴として、彼女の存在はひときわ目立つ星のように見えた。
一挙一動、その言葉ひとつで人々を魅了する彼女は、聖女と呼ばれるにふさわしいのかもしれない。
事実、オカリがフリューゲルに迎え入れられて以降、彼らの活躍は目覚ましいという。
最初はツキサとその近郊のみで活動していた彼らは、魔獣が出ると聞けば今やもっと田舎の町や村へ赴いている。
「オカリ様が地方巡回に出られるまでに、少しは使い物になるようになる事だ」
王都に降り立った聖女の噂は各地に広まりつつある。
今は街の中にいるオカリも、遠くないうちに地方巡回へ付いて出るようになる。
「努力します……」
いっさいの暖かみを感じないオーキの言葉。事務的な返事をしたツツジに、目の前の男は当てつけるようなため息をつく。
氷の瞳が害虫を見るようにツツジを見た。
「努力をしようとする事は誰にもできる。お前のようなガキが、いったいどうやって、オカリ様に取り入った?」
突き刺すような口調。
さっきまでとは違う、そしてオカリと対峙した時とも違う、ツツジに対する明らかな拒絶。
そのひとことが発せられた瞬間、オーキの言葉の端々から始終感じていた棘が大きく成長した。
察するまでもなくわかる、これがオーキの本心だ。
彼の中では、ツツジには何か裏があるとすでに決められている。
絶対に、ぼろを出してはいけない。
そう思った瞬間、ツツジの思考は一気に鮮明になった。
この男にしっぽを捕まれるような事があってはいけない。
何より、言葉だけのやりとりだったとしても、負けたくない。
ひとかけらの温かみも感じられないような相手に言い負かされるなんて、嫌だ。
「僕は、何もしていない。オカリさんと知り合って間もない僕より、あなた方のほうがオカリさんの事をよく知っているんじゃないですか?」
なぜ選ばれたのか。
それはツツジ自身も一番知りたい事。オーキ達にもその理由がわからないのなら、ツツジには想像のしようもない。
「理由が知りたいのなら、僕に聞くのは間違いでしょう。オカリさん本人に聞いてみるべきです」
たとえ知っていたとしても、自分の口からは言うもんか、という意志を込めて付け加えた言葉に、オーキの口元が歪んだ。
良い事を教えてやろう、とテーブルを叩いていた指がまっすぐにツツジを指す。
「いい気にならない事だ。替えならいくらでもきく。お前である必要など、これっぽっちも無い。少なくとも、我々にとってはな。そして覚えておくんだな。彼女は我々フリューゲルだけではなく、この街。そしてゆくゆくはこの国を導く星となる人間だ。それがわかっていれば、余計な事はできないはずだ」
「ご忠告、真摯に受け止めさせて頂きます」
鋭い目がツツジを睨む。
相手に負けまいと、ありったけの眼光を込めて、ツツジは自分よりもほんの少し高い位置にあるオーキの顔を睨み返した。
果たしてどれほどの迫力があるのかは不明だが、確実に言える事はひとつ。
この相手と親しくなるのは、何年かかっても無理だろう。
部屋を出たツツジを待ちかまえていたのは、おもしろそうに笑うオカリだった。
肘でツツジの脇腹をつついた彼女は「やるじゃない」と口の端を吊りあげる。
「オーキに言い返してたでしょ? あんた、目ぇつけられたわよ」
「……そんなに大きな声で喋ってないと思うんですが、聞こえてましたか?」
抑えていたつもりだったが、知らずのうちに大きな声を出していたのか。
顔をしかめると、オカリは首を左右に振って、後ろに回していた左手を振ってみせた。
「ばかねぇ。聞こえたんじゃなくて、聞いてたの」
そう言った彼女の左手にはコップが握られている。
ひどく古典的な方法で盗み聞きしたらしい彼女にため息をつきながら肩の力を抜いた。
恐ろしくぴりぴりしていた室内と、廊下でドアに耳をつけているオカリとの、扉一枚を隔てたその空気の落差に、さっきまでの自分がばからしく感じる。
想像するに、ツツジとオーキの会話を聞きながらオカリはずっとにやにや笑っていたに違いなかった。
「あの人、何なんですかね。僕、何かしましたか?」
フリューゲルの敷地を出ながら尋ねる。
頭からすっぽりとストールを被ったオカリは「あれが普通よ」とそっけない返事で返してきた。
「気にする必要なんてないわ。オーキは愛想が悪いの。ついでに性格もね。そこいらの女より、よっぽど陰湿なんだから」
いやに真面目な口調は、どこまでが冗談か把握しづらい。今はストールで目元が見えないから、余計にだ。
「オカリさん、あの人の事嫌いでしょう」
ゼンリの前でオーキと喋っていた時の態度や、今もあの男の事を話す時の面白くなさそうな声。
あまりにわかりやすすぎて、質問ではなく断言の形で言うと、オカリの唇がへの字になる。
「当たり前よ。だってあいつ、絶対アタシの事嫌いだもん。嫌々ながら面倒見てるのバレバレなのよ。何があっても笑わないし、一緒にいるとこっちが疲れちゃうの。わかる?」
「わかりますよ」
苦笑で返すとオカリはさらにテンポよく口を開く。
「でもあいつ、顔だけはいいから何気に女の子から人気あるのよ。みんな見る目無いっての。早く気付けって話よね」
どこにでもいる女の子の愚痴が飛び出すオカリの声は、少し早口ながらも声量を抑えている。
今いる場所が街中だからと考慮しているのは明らかで、これが他に人のいない場所であったなら彼女はもっと大きな声で同じ事を言ったに違いない。
「そうですね。……じゃあオカリさん、僕の事は好きなんですか?」
オカリの言葉に頷きながら、ついでのように訊けば、彼女は小さく首を傾げた。
「嫌いだったら、供人にしようなんて思わないでしょ?」
何を今更。
当然の事だとばかりに答えたオカリは「もしかして」と一歩前に出る。
「ツツジは、自分が適任じゃないと思ってる?」
「思ってますよ。たぶん、みんな思ってるんじゃないですか?」
みんな、はゼンリであり、オーキであり、街の人々でもある。
誰もが疑問に思っている。
フリューゲルの聖女は、なぜあの少年を選んだのか。
「そういう奴らは無視しとけばいいのよ」
はっきりとそう言ったオカリは、くるりと振り向くと、ツツジの正面で足を止めた。
「でも、聞いてきたから教えてあげる」
やはり、オカリは尋ねれば素直に教えてくれるではないか。
オーキに勝ったような気がして、ツツジはほんの少し嬉しくなった。
ストールを上にずらしたオカリは、ツツジの目をのぞき込んでくる。
夕暮れの迫る薄暗い街で、彼女は意味ありげに微笑んだ。
「来てくれたから。広場まで」
今、誰もが一番知りたがっているであろう秘密をあっさりと打ち明けたオカリは、再びストールを引き下げると前を向いて歩き出す。
一拍遅れてその後を追うツツジに、彼女は続ける。
ツツジは追いかけてきてくれた。
それを出来る人間は、この街にはいない。
フリューゲルの団員たちの先頭に立ち、去ってゆくオカリを追ってこれる人間は、いない。
独特の迫力をもち、一糸乱れぬ行進をする彼らの列を乱すことが出来るような奴は、いないのだ。
「今まであたしが選んだ奴で、あたしを追いかけて来た奴は誰一人としていなかった。あのね、ゼンリに供人が必要だって言われる前から決めてたの。自分の側に置く人間は、あたしを追いかけてきてくれる奴にしよう、って」
それは、ツツジが初めてだった。
今まで声をかけた人間の中で一番小さくて弱そうに見えるけど。
「でも、どんな強そうなやつも、あたしを追いかけてはこなかった。だから、ツツジにしたの。ずっと待ってたの。あなたみたいな人をね」
とても嬉しかったのよ。
照れたように言ったオカリの言葉に、ツツジは一瞬足を止めた。
彼女に近付けば、フィラシエルの魔術師としての自分の任務にも有利な情報が手に入る。
この偶然を利用しない手はない。
しかし、この事を彼女が知ればどう思うだろう。
嬉しかった、と言った声が怒りに変わるのだろうかと思うと、ツツジはオカリを見ることができなかった。
真実を伝えるのはまだ先だ。
出来るならば、伝えないままこの国を去っていくのが一番いい。
オカリの気持ちを思うと申し訳なさも感じるが、まずは何に置いても自分の出自を知られてる事は避けなければいけなかった。