翼を掲げる場所

 連れて来られたのは、フリューゲルの屯所らしい建物だった。

 門をくぐれば広い庭があり、その奥に大きな屋敷がある。
 庭では訓練をしている隊員たちがいて、彼らはゼンリやオカリの帰りにその手を止めると一斉に礼をした。
 不思議そうな視線を向けられ、ツツジは気まずい気分で小さく会釈をした。

 まだ何も聞いていないであろう彼らの目に、自分は一体どう映っていたのだろうか。

 ここに来るまでに向けられた、妬みや怒りをはらんだ視線の刺さる感覚を思い出して、ツツジはごくりと唾を飲んだ。
 帰りには彼らも冷ややかな目で自分を見るかもしれない。
 街の人々は、もっと冷たい目で自分を見るだろう。
 現に、道中どこからともなく「あんな弱そうな奴はオカリ様に仕えるにふさわしくない」という声が聞こえた。

 おそらく、あの場にいた誰もが思った事に違いなかった。

 オカリの側に仕えたいと思う人間はそれこそ山のようにいるはずで、彼ら希望者を差し置いて指名された自分は、明らかにフリューゲルの男たちの中に混ざっても浮いている。
 何より、彼らに比べるとツツジはあまりに細く小さかった。
 身長もオカリとそう変わらず、身体の厚みに至っては団員たちとは比べものにならない。
 供人という役目が何をするのかは知らないが、まず見た目だけで自分がこの場に似合わないという事が理解できる。
 自分ですらそう思うのに、他の人間が同じように思わないはずがない。

 そして刺さる視線の冷たさと痛さは、精神を削り取る。

 歩いた距離はほんのわずかのはずなのに、ツツジはすっかり疲れていた。
 今から街を歩くたびにこうなのかと思うと憂鬱な気分になるが、それを嘆くのはまだ後にしよう。
 まずは目の前に立つ男、フリューゲル隊長ゼンリ・ズチと無事に話し合いを終わらせるのが先だ。

 髭を蓄えた男は側に立つと見上げる長身で、それに見合うだけの身体つきをしていた。
 きっちりと着ている制服の下は鍛え抜かれた筋肉があるに違いなく、ツツジがツキサへ来てから街で見かけたどんな戦士たちよりも立派な体躯。
 そんなゼンリの正面に立たされて、ツツジは早速逃げ出したい気持ちになる。

 もし、万が一。ゼンリの太い腕が飛んできて殴りでもされたら。
 可能性がゼロとは言えない想像に、背筋がひやりとした。
 きっと部屋の隅まで吹っ飛ぶだろう。どこか折れるかもしれない。
 馬鹿な妄想だと笑われてもいいが、その可能性がゼロだと言い切れる人間はどこにいる?
 だってここは、魔獣も狩るような奴らの本拠地だというのに!
 これから一体何を言われ、何をされるのかと思うとツツジの気分はどんどん下降していった。

 部屋に入って右手のほうにはソファと足の低いテーブルがあって、どうやらそこが応接スペースらしかった。
 しかし腕を組んで机の前に立ち、目の前に並んだツツジとオカリを見下ろしたゼンリの口から「ソファへ行け」という言葉が出る事はなかった。
 ソファの上なら、気分はもっとましだったに違いない。

 後ろの扉の脇には神経質そうな顔の若い男が立っている。
 他の団員たちに比べると細身な彼は、明らかに肉体派の男たちと違って文官という言葉が似合いそうな感じがしたが、荒々しい雰囲気の男たちに対してどこか冷ややかな、鋭い刃物を思わせる雰囲気は近寄りがたさを感じた。

 ツツジの隣にいるオカリは、どうして自分がここに立たされているのか理解できない、とでも言うように右手を腰に当ててゼンリを見上げる。
 ゼンリとオカリの視線がぶつかる事数秒。
 先に口を開いたのはゼンリの方だった。

「どういう事だ」

 むっつりと放たれた声には微かな怒りと苛立ちが含まれている。オカリに放たれた言葉ではあるが、ツツジはびくりと身を強ばらせた。
 縮みあがっているツツジなどどこ吹く風でオカリは「何が?」と瞬きをする。

「何が、じゃないだろう。こいつの事だ」

 顎でしゃくられたツツジは、ゼンリを見上げはしたが続く言葉は見つからない。
 どういう事なのか知りたいのはツツジも同じで、その答えはオカリの頭の中にしかないのだ。
 そしてどこから彼を見つけてきたのか、出自はどこだと質問を投げかけるゼンリの言葉はすべてオカリに向けられていた。
 役にも立たなさそうじゃないか、お前よりも弱そうに見えるぞ、と締められたゼンリの言葉は的を射ている。

 しかしオカリは、何が悪いと言わんばかりの目でゼンリを見上げる。

「そろそろ供人も必要だな、って言ったのはそっちじゃない」
「言ったが、それにしても選び方があるだろう。自分の立場をわかっているのか? このガキで街の人間が納得するか?」

 呆れたようにため息をついたゼンリは小さく首を振る。
 もしかしたら、この人は意外とオカリに振り回されているのかもしれない。
 ふとそう思ったが、当のオカリにその自覚は無いらしく、ぷいと顔をそらす。

「アタシ、いっつもムサいオッサンに囲まれてるのよ? 近くに置いとく人間にかわいい子選んだっていいじゃない。筋肉野郎ばっかり見てるこっちの気持ちも察してもらいたいくらいだわ」

 だいたい、供人なんて荷物持ちの世話係だ。そう続けたオカリは、ゼンリに言い返す間を与えずにぺらぺらと続ける。

「荷物持ちに強さなんて必要ないでしょ? ボディーガードが必要っていうんなら、ここの奴らで十分足りてるじゃない。っていうか、アタシ、自分のボディーくらい自分でガードできるし?」

 なまっちょろい女の子とは違うのよ、と啖呵を切って、オカリはにやりと笑った。

「それに、みんなの前で宣言しちゃったわ。取り消すっていうの?」
「……こいつがお前の供人では―――」
「納得しないのはアナタたちだけよ。アタシが、ツツジを選んだの」

 ツツジの腕を掴んだオカリの顔には、少し凶暴な笑み。

「今更取り消したってツツジは一方的に恨まれてるし妬まれてる。アタシから直々に選ばれたってだけで、アタシを崇拝する奴らからの嫉妬はツツジに向くわ。そういう奴らが何かしでかすかもしれない。それが、このオカリ・ユフの立場だと思うんだけど、違うかしら?」

 皮肉るように彼女の言葉は続く。

「自分の立場ならわかってるつもりよ? この子の身の安全のためにも、これは絶対に取り消しちゃいけないんじゃない?」

 どのみちどんな人間を連れてきたって意見が割れるのは目に見えている。
 そう言ったオカリは、ゼンリに返答を求めた。

「自分たちだって誰を選ぼうか頭抱えてたんでしょ。なら納得しなさい。私の供人は、ツツジよ。これは決定事項だわ」

 凄まじい威圧感を放つ大男を前にして、オカリの態度は彼に負ける事無く始終自信に満ちている。
 それがどこから来るものなのか、ツツジには知りようもない。
 だが、オカリの言葉に無言で耳を傾けているゼンリの雰囲気は、自分の話を聞いてくれる師にどこか似ていた。

 どう見ても生意気としか取れないオカリの態度に怒る事もせず、深く深くため息をついたゼンリは扉のそばに控えている青年を見ると、「どう思う」と尋ねた。
 始終無言で、気配すら消しているように見えた青年はツツジを一瞥してから彼の上官に向かいなおり、冷ややかな声で答える。

「お姫様のわがままに付き合う必要はありません」
「ハァ!? なんですって!?」

 その言葉に気色ばんだオカリを慌てて宥めたのは一番側にいたツツジで、そんな二人の様子をちらりと見た青年は、威嚇するような態度のオカリを無視してゼンリに視線を戻す。

「と、言いたいところですが。彼女の言うように、このままこの少年を解放すればトラブルに巻き込まれるのは明らかでしょう。昨今の過激派は何をするか予想できないところがあります。実際、オカリ様の供人をどうするか思案されていたのは事実です。ここは彼に妥協してはいかがでしょうか」

 無害そうに見えるし、変に野心のあるような人間よりはましだ、と言う言葉に棘を感じ、ツツジは眉を寄せた。
 何故、初めて会う相手に妥協案だとか言われなければいけないのかと、苛立ちに似た感情がわいてくる。
 この青年に良い感情を持っていないのはオカリも同じようで、彼女に至ってはあからさまに相手を睨みつけていた。
 そして相手を気に入らないのは双方一致の感情らしく、一瞬オカリを見た青年の目はその青い色も相まって氷のようだった。
 そんな二人の関係を知っているのかいないのか、ゼンリは「わかった」と右手をあげて青年に頷く。

「オーキ、お前の言うようにしよう。オカリもそれで納得するんだろう?」

 しかし、それで油断をしないように。
 当然ながら、ツツジに対する風当たりは強く、人々に羨望の目で見られもするが、それと同じか、またはそれ以上に負の感情を向けられる事になるだろう。

 威圧感割り増しで向けられたゼンリに言葉に、ツツジは身を堅くする。
 面倒くさそうな表情のオカリの隣で、直立して彼の言葉を受けた。

「こうなった以上は、役目を全うしてもらうぞ。天下のフリューゲルで、一番目立つオカリの供人ともあろう人間が、いつまでももやしのような見た目をされていても困る。見るからに何の心得も無さそうな動きをしているが、いくら荷物持ちとはいえ訓練は受けてもらう。今までオカリの身の回りの世話はそこにいるオーキ・シンが担当していた。引継ぎは彼から受けるように」
「引継ぎなんて必要? オーキはさっさと自分の仕事に戻ればいいじゃない」
「オカリは黙っていろ」

 指示を出すゼンリを、不満もあらわに遮ったオカリ。
 彼女をひと睨みしたゼンリはさっきの広場で演説をしていたのと同じ、よく通る低い声で宣言するように言った。

「ツツジと言ったな。特別扱いは特別扱いなりに覚悟してもらう。貴様は何よりも選ばれた名誉を噛みしめろ!」

 腹の底から出された低い声に、ツツジは大きく頷いた。
 部屋に入った時の吐き気がするほどの緊張は少しだけ、ましになっていた。