夜半過ぎの
暗い部屋の中、ミクスはベッドの上で寝返りをうつ。
早すぎる就寝が悪かったのか、起床にはあまりにも早い時間だというのに眠気はどこかに吹っ飛んでいた。
冴えてしまった目を無理矢理閉じて、眠りの波が意識をさらいに来るのを待ってみるが、夜半の静けさは耳に痛く刺さる。せめて虫の鳴き声のひとつでもあれば、子守歌代わりになったかもしれないのに。
耐えるように目を閉じたまま、無音から気を逸らそうとするがなかなかうまくいかず、やがてミクスは静寂の中に別の音を見つけだす。
小さな、小さな声。
恐らく昼間であったならば絶対に聞き逃していたであろうその声は、逆に昼間は絶対に発される事のない――
「……ししょお……?」
ぱっと目を開けて、声の主の名を呟く。
気のせいだろうかともう一度耳を澄ましてみれば、確かにミクスが師と慕うマツラの声が遠くから聞こえてくる。
いつもの、優しいけれど少し迷惑そうな声とは違う。音が小さくてもわかる、苦しく歪んだ呻き声。
何かあったのかもしれないと勢いよくベッドから飛び降りて、ミクスは部屋を飛び出した。
暗がりの中、壁伝いにマツラの寝室へ向かうとドアの向こう側から苦悶の声が漏れてくる。
「ししょー、大丈夫ですか?」
控えめにノックをして、そっと声をかけるが返事はない。ただ、ミクスには応えずとも目の前の部屋の中に苦しんでいるマツラがいる。
「ししょー、返事をしてください」
今度はもう少し大きな声で。
けれどやっぱり返事は無くて。たまらずドアノブに手をかけて、ミクスは動きを止めた。
このドアを、開けても良いのか?
入った事のないマツラの寝室に、いくら緊急事態とは言え許可無く侵入してもいいのか。居候しているだけで、正式に弟子と認められてもいない自分が。
唇を噛んで、ドアノブを握る自分の手を見つめる。
このドアを開けてしまえば、居候である事すら許してもらえなくなるかもしれない。
でも、ずっと続くこの苦しそうな声を無視するなんて、自分にはできない。
ならば取るべき行動はひとつだけ。
「開けます!」
大きな深呼吸のあと、大きく宣言してミクスは握っていたドアノブを回した。
ベッドの上の師は、ミクスが部屋に突入しても眠っていた。
ひどくうなされる声がよりいっそう鮮明にミクスの耳に届き「ししょう!」と声を掛けながら駆け寄る。
「ししょー、起きてください」
目を閉じたまま、苦悶の表情を浮かべるマツラの額にはじわりと汗が浮かんでいた。
たすけて、と。
途切れ途切れに漏れた声に、ミクスは伸ばしかけた手を止める。
上手く聞き取れない言葉の間に、確かにそのひと言は挟まっていた。
聞いてはいけないものを聞いてしまった。
少しの後悔に唾を飲み込んで、ミクスは伸ばした手で布団越しにマツラの身体を揺する。
「ししょー、大丈夫ですか。起きてください」
闇の中、マツラの目覚めを許さない悪夢は思ったよりもしつこかった。
何度か同じ言葉を繰り返し、とうとう控えめだった呼びかけにもしびれを切らしてミクスは強い口調で声量をあげる。
「ししょう! いい加減に起きてください!!」
今度こそ、ミクスの声に新緑の瞳がぼんやりと開く。
定まらない視線を受け止めて、ほっと肩の力が抜けるのを感じた。
「大丈夫ですか」と再度聞くと徐々に焦点の合ってきた表情は、すぐにばつの悪そうなものに変わる。
「……ごめん、大丈夫だから」
身体を起こしてゆっくりとそう言ったマツラの息は浅くて早い。首筋には髪が張り付いていて、言葉に反して大丈夫とはほど遠いその様子に、掛け布団の上に置かれたマツラの手を取って、ミクスは新緑色の瞳を覗き込む。
「わたし、お茶入れてきますね。ししょーはここで待っててください」
なんとか笑顔を作ってみれば、困惑したままの表情でマツラがゆっくりとひとつ頷いてくれた。
そっと立ち上がって、なるべく音を立てないようにしながら振り返らずに部屋を後にする。ドアを閉める直前に「ごめんね」ともう一度謝罪の言葉が聞こえた。
キッチンに向かいながら、今更心臓がばくばくと速度を速める。
大丈夫じゃ、ない。
自分も、あの人も。
どちらも大丈夫なんかじゃなかった。
どうしていいのか全くわからなかったのだ。大丈夫じゃなかったのはミクスのほうだった。
呼びかけに応えてくれないマツラに、一瞬だけ「このままこの人は目を覚まさないかもしれない」と思ってしまった、それがひどく恐ろしかった。
暗闇の中、悪夢にうなされるマツラを“こちら側”へ呼び戻す事が出来ないような気がして。
どうしようもなく憧れてここまで来たのに、ミクスは何もわからない。
わからなくて、胸が痛い。
どうしてあの人があんなに悲しそうな顔で、声で、謝罪の言葉を口にしたのか。
何もわからないのに、どうしようもなく苦しくなって今夜はまだしばらく眠れそうになかった。
「わたしがもっと賢かったら、もっと色んなことがわかったのかなあ」
湯の沸く音を聞きながらミクスはしみじみと呟いた。