山に帰ってきたケムリを待っていたのは、大きく抉れた地面と、その側に作られた粗雑な檻らしきものの中に捕らえられているイノシシだった。
彼が森に仕掛けた罠では決して無く、生木を裂いて地面につき刺しただけの檻は即席にも程がある。
「なんだ、これは」
目の当たりにした光景にしばらく言葉を無くし、それに背を向けて家へと向かう。
たった半日の間に木を地面ごと抜き取って柵を作れるような芸当ができる人間は、ここにはいないし、もしも自分が同じ事をするならば、その跡がこうも無惨な状態になるようにはしない。
それが人力だったとしても、魔法だったとしても、だ。
例え魔法でこれを行ったとして、なかなかに几帳面なところのあるツツジならばもっと上手にやるだろう。
そして、マツラだったとしたら。
「うまく使えば、うまくやるんだろうけどねえ……なんていうか、やっぱり荒削りだね」
この原因はおそらくマツラで間違いない。
彼女は道具だけは立派なものを与えられている。
しかしいかんせん、ど素人すぎる。道具の使い方がまずければ、それは子供が斧を振り回しているようなもの。
彼女に必要なのは、与えられた道具。つまり魔法と慣れ親しむ時間だった。
もっともそれは、修行を始めたばかりの魔術師誰にも言える事なのだが、マツラの場合は知識量や経験に対して、道具が最初から玄人向けすぎる。
「さーて、ちょっと話を聞いてみないといけないな」
面白そうな事になってきた。
まるでそう言いたげな表情で、ケムリは家のドアを開けた。
「ただいま」と勢いよくドアを開けた瞬間、彼を見る顔がみっつ。
その中で、マツラが明らかに「まずい」という表情を浮かべていたのを見てやはりと確信するが、何か口を開く前にユウヒが口を尖らせた。
「のんきに帰ってきて、あなたがいない間こっちは大変だったんだから!」
彼女が何の事を言いたいのかすぐに察したケムリは大きく頷く。
「それならもう見てきたよ」
予想通りの大物だ、と続けて、ケムリは二人の弟子に目をやる。
遅めの昼食をテーブルに並べていたところだったらしいツツジと、まだ濡れている髪にタオルをかけているマツラ。
「あれは、マツラがやったのかな?」
はい、と小さな声で頷いたマツラに外傷は無く、あのイノシシを相手するに際して彼女は何の負傷もしていないようだった。そして不安の滲む表情から、森の惨状が彼女の本心ではなかった事が伺える。
「どこも怪我をしていないなら、それに越した事はない。僕が心配したのはそれだけだよ」
安心させるようにそう言うが、ユウヒは不満そうだった。
怪我こそしていないものの、頭から泥をかぶって腰を抜かしているマツラは、それはもうひどい有様だったのだと説明され、彼女の髪が濡れている理由を知る。
乾ききっていないせいで、普段より大きく外に跳ねている黒髪に、取り出した竹刀で軽く触れると、僅かな蒸気をあげてマツラの髪が乾く。
きょとんとするマツラに頑張ったご褒美だと伝え、事のいきさつを説明するように求めると、ツツジもマツラの隣に来て二人は口を開いた。
「畑作業をしていたら森からイノシシが出てきたんです」
「僕がそれに気付ければ良かったんですが、その時生憎別行動で」
「私、イノシシの対処法なんて知らないし、とにかく逃げなきゃと思って。そしたらイノシシが追いかけてきて。もう必死で走っていたら、糸の束が光って。なんでもいいから助けて、って思ったらもの凄い衝撃が来てああいう事に」
「僕が気付いたのはその爆発の時点で、慌てて森に向かったらあの有様でした。色々考えずに僕もマツラさんと畑のほうにいればこんな事にはならなかったのに」
「……うん、よくわかったから。二人とも同時に喋るのはやめなさい」
まとめると、マツラは「助けてくれ」という目的のみであの状況を作り上げたという。結果、マツラを追っていたイノシシを捕獲する事でマツラを「助けた」事にはなるが彼女自身が頭から泥を被ったというように、少ないながらも術者に被害が及んでいる。
おそらく具体的な指示が成されなかったために起こった事態だが、普通「助けてくれ」という曖昧すぎる指示のみで魔法が形成される事はない。
逆に曖昧すぎて、ここまで盛大な事になってしまったのだろうが。
「契約を結んだ以上は、マツラは立派に魔術師だし魔法が使えるんだけどね。しかしまあ、君の力の使い方はなんというか……でたらめだなぁ」
経験を積んだ上位魔術師でも、曖昧な指示は精霊たちに無視される事も少なくなく、修行を始めたばかりの魔術師では、さらにその傾向が強い。
その中で、過剰な結果を出したマツラは、やはり規格外なのだろう。
最上の力を貸す、という精霊の言葉を思い出し、ケムリは改めて自分の目の前に立つ少女を見た。
「マツラ、魔法を使うときの指示はなるだけ細かい内容で出したほうがいい。今回はこういう形でも成功しているけど、何も起こらない事だって有りうる。逆にこれ以上の事が起こる可能性もあるからね」
たとえば、今回は八つ裂きにした木が檻になったが、それが矢や銛のようにイノシシを襲った場合はじゅうぶんな凶器になるし、木に干渉せずとも、イノシシ自体を八つ裂きにする事も可能なのだ。
そして細かな内容の指示を出す事で働きを限定させれば、マツラ自身が自分の術でなんらかの被害を被る事も避けられる。
「こういうとっさの時にそういう事はまだ難しいかもしれないけど、徐々に慣れていけるようにしよう」
「はい。気を付けます」
ケムリの言葉に、彼にとって真面目すぎるように見える弟子は神妙な顔をした。
「それにツツジ、逆にマツラが一人だったから勢いで魔法が使えたっていう可能性もあるし、まあ結果オーライって事にして」
言葉を区切ると、ケムリはさっきから空腹を刺激する香りを放っているテーブルに視線を向けた。
街からこの家までは、遠い。時間はとうに午後。
帰宅してから昼食にしようと思っていたケムリは、テーブルの上の食事が気になって仕方なかった。
「お互い、話したい事は山ほどあるだろうけど、ひとまず食事にしないかい? 腹が減って仕方ないんだ」
ツツジが「今すぐに!」と返事したのと、ユウヒが呆れたようにため息をついたのが同時。そしてマツラはタオルを持ったまま、ケムリを見上げた。
「師匠、すみませんでした」
その謝罪が、勝手に魔法を使った事に対してなのか、彼の庭である森を傷つけた事に対してなのかはケムリにはわからなかった。
ただ、ひとつ言える事は。
「謝る必要なんて無いんだよ。こんなに派手な事をやったんだと、自慢していいくらいだ。何かしようと思うなら、少々ダイナミックなほうがいいからね!」
どうせやるなら盛大に。
ケムリの言葉一瞬ぽかんとし、さらに困ったようにマツラは笑った。
結局、マツラが捕まえたイノシシはその尾を麓の街の猟師会に提出する事になった。尾を提出する事で害獣捕獲の証となり、有害獣の捕獲、猟に協力したという形になり、報奨金が出るのだという。
一方、近いうちに森に休憩所を作る予定だったケムリは、マツラの魔法で開墾された森をその場所に選んだ。
最初の手間が少し省けたと、森に住む魔術師は声をたてて笑った。
とんでもない事をしでかしてしまったと落ち込んでいたマツラは、それで少し救われた気分になった。
そしてさらなる朗報は、ケムリが街で購入してきた荷物の中にあった。
ほんの基本的な裁縫道具一式と、鮮やかな発色の色糸。
目を見開くマツラにそれを差し出しながら、ケムリは言った。
「今まで刺繍を禁止していたけど、無事契約もできた事だしちょっと解禁してみようか。ただし、やりすぎは禁物だ。あくまで趣味の範囲にしるようにね。それと……」
ケムリは赤い糸を持ち上げる。
「ここに来る以前の君は、おまじないの刺繍という形でささやかな奇跡を呼び起こしていた。最初に僕は、それを魔法だと言った。……覚えているかい?」
「はい」
マツラが頷けば、満足そうに笑ってケムリは糸の束をマツラのほうへ押しやった。
「気をつけてほしいのは、今までと同じ刺繍であっても、精霊と契約した君の“おまじない”はもっと強力なものになっているかもしれないという事だ」
魔法への昇華。
マツラの故郷の刺繍は、模様そのものに意味がある。魔術師として、精霊と破格の契約をした彼女がそれを描く事で、そのまじない的な作用がより強いものになっているかもしれない。
万が一何か変化を感じた時はすぐに報告すること。
人差し指を立てたケムリに、マツラは慎重に頷いた。
「わかりました。気をつけてみます」
万が一にも、あの森で起こしたような事をまたやらかす訳にはいかないと気を引き締めつつ、差し出された色糸に手を伸ばしながら。しかしためらったように彼女は続けた。
「でも、おまじないなんて、あやふやな上に速効性の無い物、どうやって変化を見極めるんですか? 今まで実際に作っていた私にも、どこまでが本当かわからない噂話だったのに」
「たしかに、不安定な要素が多いからこそ“おまじない”だという考え方もありますが」
考えるように首を傾けたツツジに、神妙な表情のままマツラは答える。
「そう。おまじないは百発百中じゃない。同じ図案のおまじないに対するハードルだって個人ごとに違うし、師匠の言葉を借りるなら、私の刺繍“持っていれば幸せになれる”とか、すごく曖昧なものだから。何も起こらなくたって考え方ひとつで、どうとでもとらえる事ができる。それとも、本当に絶対効くかどうか、武運を祈る模様でも刺繍して道場破りでもしてみる?」
師匠なら絶対勝てますよ、と勢いよく身を乗り出したツツジに、ケムリは乱暴な事は嫌だなあ、と手を振った。
そんな師に、マツラは膝の上で手を握りしめて思い切ったように切り出す。
「あの、師匠。許してもらえるなら私、久々に好きなものを刺したいです。おまじないとか商品とか、そういうのを抜きにして」
唯一とも言える特技を許してもらえた事はとても嬉しく、趣味で、とケムリに言われた瞬間、描きたい模様が目の前にふわりと広がった。
マツラはずっと売り物としての作品を作ることに重きを置いていた。その作業を楽しみ、布の上に描きたいと思った物を自由に刺していたのは、彼女にとってはもうずっと昔の事だった。
それが苦痛だったわけではない。
楽しみや苦痛とは全く違うものが存在していた。痛みも喜びも伴わない。ただ心を覆っていたものは、この仕事が義務なのだという思い。
頭に広がる図案を好きに描く事は、義務からは逸れてしまう。だからずっと、仕事以外のそれは胸の中に深くしまい込んでいた。
しかし、楽しんで刺繍をしてもいいのなら、頭の中で展開される自分の図案を描いてみたい。
だめでしょうか、と師を見れば、たくましい腕が肩に乗せられた。
「君がそうしたいと言うのなら、きっとその方がいい」
故郷で封印していた楽しみも、ここでは遠慮する事なんて無い。
いつもの快活な笑顔に乗せられたその言葉は、マツラの胸にじわりとしみこんだ。