「実感がわかない」
そう言い放って、マツラはちぎったパンを口に入れた。
一晩あけたが、自分自身には何の変化も感じられない。
これは、想像していたのと違う。
いつもと違うことと言えば昨夜は異常に眠かった事くらいだが、昼間に慣れない山歩きをした事を考慮すれば、その原因は疲れのせいかもしれない。
「そりゃあ、精霊と契約したからって急にムキムキにはなりませんよ」
筋肉は日々の積み重ねですから、と笑うツツジからは昨日マツラを見ていた時のような怯えは感じられない。
これまでと何も変わらない彼の様子にほっとして、マツラはまたパンをちぎる。
「私、べつに筋肉がほしいわけじゃないんだけど……」
ツツジという少年は、師匠であるケムリの事をかなり信奉していると見え、自分もいつかケムリのようなマッチョになるのだと折に触れ口にしていた。
どちらかと言えば女性らしい顔のつくりをしているツツジが山の男のような体型になったところを想像して、マツラ頭を振った。
やめた方がいい、という言葉はすんでのところで飲み込む。
兄弟子がマッチョになろうが、それは結局本人の自由なのだ。似合う似合わないは別にして。
個人的には、断固やめてほしいと思っていたとしても。
そして筋肉に多大なる憧れの念を抱いているらしいツツジがどう見ても細マッチョですらないところを見れば、彼は筋肉のつきにくい体質らしい、というツツジにしてみれば非常に不幸な。しかしマツラにとっては些細な幸運に心の中で密かにガッツポーズをした事は、彼女の中だけの秘密だった。
ラクトは今朝早く、自分の担当であるグランディスとの国境へ向けて出発をした。
ケムリは山のふもとの町までラクトを見送ると言って共に下山をし、マツラとツツジは、ユウヒと共に留守番をする事になっていた。
そんな二人の今日の仕事は、もう決まっている。
朝食を済ませるとツツジは袖をまくりあげた。
「よし! マツラさん、働かざるもの食うべからずです!」
「わかってるよ! 畑のほうは任せてね!」
答えながら、マツラも頭にタオルを巻く。
「お願いします! 僕は薪割りに勤しみます!」
張り切って答えたツツジは、家の裏手に回る。そちらにはまだ薪になる前の木が積み重ねられていた。
斧を振り回すツツジの姿は想像できないが、とにかく薪割りは任せる事にして、マツラは鍬を手に畑を見回した。
手入れの行き届いた畑は、森の動物から作物を守るため、ぐるりと柵と網で囲われていた。
それでも畑は荒らされるところを見ると、この努力はいまいち報われていないのだが、それはおいおい考える事にして。
畑の一角、きれいに草がむしられ耕されているところまで進んでいき、マツラは鍬を振りあげた。
畝を立てて野菜の苗を植える。
それが彼女の今日の午前中の予定だった。ケムリが戻ってくるまでにこれを終わらせ、午後からは昨日精霊と契約を交わしたマツラに、ケムリが実技指導をしてくれる。
午後からを思うとそわそわして仕方ないが、今はまずこの作業を終わらせなければならないと、マツラは黙々と畝を立てていく。その作業が終わる頃には額にじわりと汗が浮いていた。
いったん休憩しようと汗を拭い、伸びをしてできたばかりの畝を見る。これなら用意している苗もちょうど全部植える事ができるだろうと頷いて、息をつく。
空は快晴。外での活動にはぴったりの天気だ。ユウヒは洗濯をしていたはずだが、洗濯物もきれいに乾きそうだと、空を見上げるように背を反らしたマツラの耳に、森の木が揺れる音が聞こえた。
なんとなく嫌な予感にゆっくりとそちらを見ると、畑を囲う柵と網の向こう、森の中からそれは現れた。
固そうな濃い茶の毛並みに、少なくともマツラの腰まではありそうな大きさのその動物は。
「でっ……」
出た。
悲鳴を飲み込んで、マツラは顔をひきつらせた。昨日ラクトが言っていた言葉が頭によみがえる。
イノシシから逃げていたら道に迷った。
彼の言葉は、この山に確実にそれが棲んでいるという証言に他ならない。何よりも、畑を荒らす獣がいることはすでに実証済みだった。
のそりと森から現れたイノシシは、迷う素振りを見せずにまっすぐに畑のほうへ向かってくる。
幸運だったのは、ケムリ曰く敵であるそのイノシシがマツラに向かって突進してこなかった事だろうか。
しかしそれもただの運だ。相手は獣だ。次の瞬間には全力で走ってくるかもしれない。そんな事になる前になんとかしなければ。
「つ、ツツジ、ユウヒさんっ……」
今この山に残っているはずの二人を呼ぶが、相手を刺激してはいけないと思うと声は全く出ない。
まずは逃げなければ。それでも下手に動くと気付かれてこっちに向かって来ないとも限らない。
「やばい……」
囁くようにそう呟いて、マツラは目を走らせる。
畑から出てツツジのいる焚き物小屋まで行くにはどうあがいてもイノシシの前を横切らなければならない。
ユウヒのいる場所に行くのも同じだ。
絶体絶命という言葉が脳裏に浮かんで、さっきまでとは違う汗が出てくるのを感じた。
畑を荒らす獣の捕獲に、あんなに熱意を持っていたにも関わらず、どうしてこんな時に限ってケムリはいないのだろう。
森の危険な動物と一対一で対峙した時の対処法など、一言も聞いていない。
熊だろうとイノシシだろうとなんだっていい。
とにかく、森で動物と遭遇した時どうすればいいのか。それを教えてほしかった。
どうしようと動けずにいる間にも、イノシシはこちらへ向かってくる。距離は、近い。
もうどうしようもない、と息を殺すようにして一歩後ずさると、相手の視線がこちらを向いた。
「……」
視線が絡み合いゼロコンマ一秒。
剛毛の獣が、マツラのほうへ突進をはじめた。
「ひっ!!」
息を飲んで身を翻すと、マツラは背を向けて駆け出す。
負ける。絶対負ける。
走っても絶対負けるし、体当たりしても絶対勝てない。
「む、無理ぃぃぃぃぃ!!」
こちらへ向かってくる鼻息荒いイノシシから全速力で逃げながら、マツラは叫んだ。
どうしてこんな事になっているのだろう。
今まで記憶にある中で最も必死になって走りながら、マツラは泣きたくなった。ちらりと後ろを確認すれば、敵は自分を追いかけてきている。
ツツジはこちらの異変に気付いているのだろうか。もしもそうだとしたら、一刻も早く助けに来てほしいのに。
後ろから追ってくる気配は消えず、自分の体力が削られていくのを感じながら、マツラはこれでもかと腕を振り足を動かす。息が切れて、胸が苦しい。
全速力は、そう長くは続かない。それでも、追いつかれたらおしまいだ。
「た、たす……」
喘ぐように、声を出す。それ以外に口にする言葉が思いつかなかった。
後ろからやってくる、あの茶色い塊から。誰でもいい。どうか。
たすけて!!
力を振り絞って叫んだ瞬間、マツラの視界の隅で緑色の光がちらついた。それが自分の腰に吊されている糸の束から放たれる光だと気付くまでに十数歩。
気付いてから、走ったまま糸を手に取るまでまた十歩。
皮のベルトから糸を巻いている束を抜き取りながら、マツラは顔をしかめる。
「いったい、どう、しろって……言うの、よ!」
緑色の光はマツラの手の中で輝きを増していく。
この糸が何を主張したくて光っているのか、自分はこれで何をすればいいのか。
何もかもわからないし、息は苦しくて横腹が痛い。腕も足も、もうこれ以上動かせない。走れない。
それでもイノシシはこちらへ向かってくる。
もうどうにでもなれ、とマツラは足を止め身体を反転させると、すぐ後ろに迫っていたイノシシに向かって糸を持つ右手を突き出した。
「こいつを、どうにかして!!」
息を吸って、腹から声を出すように叫ぶと、緑の光は一瞬弱まり、そして真昼の太陽を見た時のような強い閃光がマツラの視界を埋め尽くした。
何かが盛大に爆発するような音と、家の向こうの空に昇る土煙にツツジは薪を割る手を止めた。
あれは畑のある方の森だ。
「マツラさん……!」
ここに来てまだ日の浅い妹弟子は、最高の道具を授かっているにも関わらずその使い方がまだわからずにいる。
そんな彼女が、高く舞い上がる土煙を伴う爆発と思われる現象に巻き込まれているのなら、到底無事では済まないはずだ。
手にしていた斧を投げ出し、ツツジは側に置いていた媒介であるラケットを掴むと土煙のあがる森へ向かって駆け出した。
たった半日のケムリの留守。まさかそんなほんの短い時間に問題が起こると、誰が予想できるだろうか。
「ツツジ!?」
洗濯物を抱えたユウヒが走るツツジを呼ぶ。「大丈夫?」と問う声はこわばっていた。
「任せてください!」
振り向きもせずそう答えたが、ツツジは何が起こったのかもわからない。
踏み込んだ森に火薬の匂いは無く、火の手もない。
抉れた地面では倒れた木の根が剥き出しになっていて、薙払われた木々はその大半が縦方向に裂かれ、荒削りで不揃いな材木のようになって散乱している。
いまだ宙を舞う土煙に視界が濁っている森の中で、その光景に言葉を無くし、ツツジは辺りを見回す。
畑にマツラはいなかった。ならどこにいる? まさに、この現場ではないのか?
「マツラさぁん!!」
辺りを見回すして名前を呼ぶと、咳こむ声が返事をした。
「つ、ツツジ! どうしよう」
混乱と安堵が入り交じった声に、ひとまずマツラは無事らしいとツツジは足下に気をつけながら声のしたほうへ足を向ける。
数歩進んだ先には、剥き出しの地面の上に座り込む、頭から靴まで泥だらけのマツラ。
「一体なにがあったんですか?」
「イノシシが出て、逃げたら追いかけられて……」
「とうとう出たんですか!!」
呆然とツツジを見上げるマツラは、ゆっくりと腕をあげた。その右手が、彼女の正面、ツツジの背後を指さす。
「糸が光ったら、ものすごい音がして……」
こうなった、と言った二人の視線の先。
地面から抉り取られた木の幹。ツツジが荒削りな材木のようだと思った物が、不揃いな間隔でひとつの円を描くように地面に深く突き刺さっていた。急拵えの柵が取り囲むのは一頭のイノシシ。
ここしばらくケムリの畑を荒らしていたと思われる獣は、鼻息荒く荒削りの木の柵に体当たりを続けている。
口を半開きにしたままその光景と、頭から土を被っているマツラを見比べて、ツツジは言葉を失った。
害獣の捕獲は喜ばしい事に違いないが、マツラがこの状態を引き起こしてしまった事は間違いなく、これは到底ツツジの手に負えるものではない。
歪な柵はしばらく持ちそうでもあるし、ここは一旦帰ったほうがいいのかもしれない。ケムリが戻ってきてから事後処理をしてもらっても、問題は無いだろう。
柵を補強するような魔法をかけて、マツラを連れて帰ったほうがいい。何よりも、マツラ本人が事態を飲み込めていないように見えるのだから、落ち着く時間が必要に決まっている。
「どうしよう、ツツジ」
力無くそう呟いたマツラは、途方にくれたように、膝先に転がっている糸の束に目を落とした。
「これ、さっき光ったんだよ」
彼女の言葉が嘘のように、それはただの糸として、地面に落ちていた。