奥様は魔女にあらず

 先に動いたのはオカリだった。
 重厚なテーブルに足掛かりに、軽い身のこなしで跳ぶと伸ばされた足が空気を切り裂く。
 間違いなく首あたりを狙った高い位置の蹴りを、しかしそれ以上に速い動きで避けたユウヒの、今度はその顔面を狙ってオカリの拳が繰り出される。
「っと……!」
 しかし、ぎりぎり頬を掠める距離で攻撃を回避した謎の主婦に、オカリの表情は険しくなる。
 ただ者じゃない。
 最初に感じた疑惑は、とっくに確信に変わっていた。

 振り向きざまに相手のこめかみに照準を合わせて打ち出した肘は大きな手に打ち止められ、失敗したと思った瞬間、ユウヒの口角が上がるのが見えた。
 同時、腕を掴まれ攻撃の射程内に引き寄せられる。
 防御の隙を与えず、お上品なスカートの中に隠された膝が力いっぱい内臓を突き上げ、たまらずオカリは身体を折った。
 久々に感じる痛みの向こう側で、マツラの悲鳴が聞こえる。
 それを上書きするのは、冷ややかなユウヒの声。

「たいした事ないわね」
「るさいっ……!」

 一発でいい、当てれば勝機はある。
 なのにこの相手は、オカリの攻撃を避け、受け止めては流してしまう。
 ただ一度でいいのに。

「降参なさいな」
「誰が」

 顔を顰めて吐き捨てると、部屋の隅に避難していたマツラが声を張り上げる。

「ユウヒさん! オカリちゃん! もうやめてよ! こんなの意味ないでしょ!?」

 精一杯の勇気をもって声をあげたであろうマツラの、怯えと混乱の表情が微笑ましいとすら感じた。
 彼女は、これまで誰かと殴り合いの喧嘩なんてした事もないし、そんな場面と遭遇した事も無いのだろう。
 それはとても幸せで、良い事だ。

 ―――だけど。

「マツラちゃん、止める事のできない戦いがあるのよ。私にだって、この子にだって」
「ま、そういう事なんで。黙って見てなよ」

 ちらりともマツラを見ずに放たれた言葉に、マツラは言葉を失った。
 二人の言っていることが、まるでわからない。
 ラクトとツツジも揃って「そら見たことか」と諦め混じりに首を横に振るし、マツラは途方に暮れてオカリとユウヒ見た。

 きらきらと凶暴な光を宿した紅梅の瞳が、注意深く相手を睨む。
 悠然と構えるユウヒも、身体の神経を研ぎ澄まして相手の出方を伺っていた。

「ちまちました事は嫌いなの」
「奇遇ね。アタシもよ」

 それじゃあさっさと終わらせましょう。
 合図はユウヒのひと言だった。
 オカリを狙って空を切った拳を今までのお返しとばかりに払いのけ、右足をユウヒの顎めがけて振り上げる。
 相手が咄嗟に仰け反ったタイミングで、大きな窓へ向かった。

「何を……」

 警戒する声を無視して、深い緑色をした重厚なカーテンに飛びつき、力一杯に引っ張ると上のほうから明らかに何かが壊れる音がして、窓にかかっていたカーテンはただの布になる。
 思っていたよりも重い事だけが計算外だったが、その重量もさして問題ではない。
 奥歯に力を込めて、漁師が投網を投げるように、オカリは手触りのいい厚い布をユウヒに向かって大きく翻すと、手を離した。
 自分に降ってくるカーテンを振り払おうと腕を上げたユウヒ目がけ、一気に距離を詰める。

「小賢しい!」
「最高の褒め言葉だわ!」

 振り払われた布の向こうに相手の姿を確認し、オカリは笑う。
 軽く床を蹴り、勢いを付けて身体を捻った。高く上げられた脚は迷い無くユウヒの頭部を狙う。
 勝負の時間はほんの僅か。
 今決めなくては次は無い。

 刹那、一気に殺気を帯びたユウヒの瞳に、オカリの全身をぞわりとしたものが駆け抜けた。
 迷う事さえ無ければ、この一撃は確実に喰らわす事ができる。
 もし少しでも躊躇すれば、命は無い。

 その判断を、誤った。
 正確には、理解していたが臆してしまった。
 それでも動く身体はもう止まらない。
 得た勢いのままに、仕留めようと狙った道筋で滑るように得物を捉えた。

 手応えが無い事すら覚悟した。

 しかし、想像した最高の当たりよりも少し弱く、予想した最悪の空振りとはほど遠い、確かな当たりに、オカリは息を吐きながら足を着く。
 入った。
 過去の経験からそう確信できるだけの手応えに、オカリはドアのほうへ視線を向ける。

「あんたのおかげだわ」

 ノックも無しに脳天気な声と共にドアを開けた、筋肉質の魔術師。
 幸運にも、彼の登場でユウヒは完全に怯み、隙ができた。そうでなければ、どうなっていたかわからない。
 いまだドアノブを握った体勢で目を見開き、オカリと、オカリの蹴りをもろに喰らった自分の妻を交互に見比べているこの男が来なければ。

「ゆ、ゆ、ユウヒさん!? どうしてこんな事に!?」

 やっと言葉を発したケムリは、慌てた様子でユウヒに駆け寄ると、渋い顔で額に手を当てている彼女をソファのほうに座らせる。
 それを見て、恐る恐るマツラたちも部屋の隅から出てきた。

「どうして、って……アンタが呑気な声出しながら急に出てきたからでしょ!? 空気を読みなさい!」

 頭を振ったユウヒはさっきまでとは別人のように、マツラがよく知るいつもの彼女だった。
 優しくて、ケムリに対して少し強気で、世話焼きの奥様。
 そんな彼女の向かいに膝をついて、ケムリはユウヒの目を覗き込むと、もう一度オカリの姿を確認した。
 髪がぼさぼさで服が乱れて、少しだけ息のあがったオカリに、ケムリの表情が曇る。

「どう見てもオカリ君のほうが負けてたみたいだけど? 弱い者いじめはどうかと」
「は? アタシが負けてるって? 何言ってんの」

 すかさず憤慨して口を挟んだオカリに続いて、ユウヒも問う。

「この私が意味もなく非力な女子をいじめていたと? あなたはそう言うの? たった今、私がこの子に一発くらったの見てなかった?」
「それは見ていました」

 静かな微笑みと一見穏やかな口調はじりじりと精神を抉る。
 神妙に頷くケムリに、オカリとユウヒは口々に反論した。

「見てたなら、なんでアタシが負けてるってなるの? おかしいじゃん。どう見てもアタシの勝ちでしょ」
「そうよ。これが一方的に見える? 弱い者いじめ? ちがうでしょう?」
「……はい……」

 追い詰めるように返事を迫るユウヒに、ケムリはたっぷり間をあけて頷く。
 マツラたちにとっては少し懐かしいやり取りだが、ここでも勝敗にこだわるオカリが、マツラは少し心配になる。
 どこかの勝負で、万が一にも負けてしまったら、オカリの心は折れてしまうのではないか?
 だが、ケムリの心配は別のところにあったようで、「でも」と口を開いた師は珍しく厳しい表情でユウヒを咎める。

「この状況、ユウヒさんが約束を破った事は事実だよね?」

 彼とユウヒの約束が何なのか、マツラは知らない。
 覗い見れば、それはツツジも同じようできょとんとしている。ラクトは何か知っているようで、口を結んでユウヒを見ていた。
 当のユウヒは、と言えばばつが悪そうにケムリから目を逸らす。

「……それは、そう……ね。ええ、認めるわ」
「どうして。今までこんな事なかったのに」

 眉をひそめて問いかけるケムリに、ユウヒは一度オカリを見てから息を吐くと、目を閉じたまま俯く。

「……この子に、先生の前に立てるだけの技量があるのか、見極めたかった」
「それで殴り合いかい?」
「私にだって分別はあるわ! 斬り合いは駄目だと思ったの!」
「……するつもり、だったんだ……?」
「少しだけ」

 弾かれたように顔をあげ、一度強く言い返したユウヒの口からものすごく物騒な言葉が飛び出した気がして、マツラは耳を疑った。
 どうか、聞き間違いであって欲しい。
 喧嘩どころか、斬り合いをしようと思っていたなんて嘘だと思いたい。
 そもそもこの状況、マツラは何一つ理解できていないのだ。

「あの……師匠」

 意を決してケムリに呼びかけると、少し疲れた表情で師はマツラを見上げた。

「なんだい、マツラ」
「ユウヒさんとの約束って……」

 口にして、違うと思い至る。
 そんな事を聞いたところで、根本的な謎は解決しない。

「師匠、ユウヒさんは一体―――」
「何者なのよ」

 マツラの言葉を引き継いでオカリが言い放ち、油断なくユウヒを捉える瞳の上で眉が跳ね上がる。
 観念したように息を吐いて両手を摺り合わせ、ケムリは一度ユウヒの顔を確認して目をあげた。

「先の内戦、戦場では先頭切って剣を振るい、数々の武勲を立てた女剣士。君もグランディスにいたんなら、一度くらいは聞いた事があるだろう」

 細められていた紅梅の瞳が、僅かに見開かれる。
 マツラは口元に手を当ててユウヒとケムリを交互に見比べる。

「フィラシエルの出身だと発覚した後は、魔女と罵られ追放された女剣士。それがユウヒさんだ」

 とっくに退いたとはいえ、君とは実戦の経験数が違うんだ、とケムリは疲労感もあらわに、首を左右に振った。