獣を連れた使者

 植物の図案はマツラが好きなもののひとつだった。刺繍を始めたばかりの頃に、飽きるまで縫いとり続けたのは可憐な花の模様。
 ごく初心者向けの図案を基に、マツラはさまざまな植物をモチーフにした模様を組み合わせ、白いテーブルクロスに濃淡様々な色を使ってその縁を彩る刺繍を施した。
 それぞれの四隅には、家庭の安定を願う家を守る小鳥の印を置く。
 結局幼い頃から慣れ親しんできた故郷に伝わる伝統模様を忘れる事はできないらしく、ごく自然にそれを配置する事になった。
 暇を見つけてはゆっくり作業を進め、完成した頃にはマツラが破壊した森の一画には、ケムリとツツジにより小さな東屋が完成していた。
 それに一番喜んだのはユウヒで、完成した当日の午後には軽食を持ってそこでお茶をする事になった。
 これからは、何もない日はここでのんびりするのだと、彼女は語る。
 あわせたように、刺繍の完成したテーブルクロスをユウヒに手渡せばしげしげとマツラの手仕事による模様を眺め「すごいのね」という驚きともとれる呟きと共にきらきら輝く茶色の目がマツラを見た。

「本当にすごいわ、マツラちゃん。とってもきれい! 特技だっていうの、納得よ!」

 自分は細かい作業が苦手だ、と常々口にするユウヒは何度も「ありがとう」と「本当にきれい」を繰り返して色糸で縫いとられた模様を指でなぞった。
 ケムリとツツジも、実際にマツラが施した刺繍を見るのは初めてで、ユウヒの手にあるクロスをのぞき込んで、それぞれ感嘆の声を漏らした。
 話には聞いていたが、本当に手の込んだものだ、と言うケムリに、マツラは照れたように量産していたハンカチはここまで派手に刺繍したりしない、と答えるとお茶を口に含んだ。
 少し恥ずかしいが、誉められる事は素直に嬉しい。
 特に、相手の事を思って作ったものをこうも手放しで喜んでもらえるのは何よりのご褒美だ。

「でも、私は小屋建てちゃう師匠たちのほうが凄いと思います」

 お茶を飲みこんでケムリとツツジを見れば、ケムリは胸を張る。

「山で生きるからには、あらゆる事が出来たほうがいいからね! まあ僕にかかれば、この程度は簡単な事だよ!」
「嘘おっしゃい。ずいぶん前から念入りに調べて麓の大工さんにだって色々聞いてたの、知ってるんだから」

 しかし、すかさず横からユウヒが口を挟み、ツツジとマツラは互いに苦笑する。
 周囲はまだきれいに整備されている訳ではないが、最初の惨状から比べると嘘のように整えられていた。
 建物の周りに敷かれた石の周り、むき出しの地面だけはどうしようもなく、芝でも置いてみるか、と腕を組むケムリに対してユウヒは石畳を家まで繋げてほしい、と言い出して、しばらく唸ったケムリは「善処します」と短く答えただけだった。
 本当にそれが実行される場合、働くのはケムリとツツジなのが明らかで、その労働を想像したのかツツジの表情が一瞬強ばったのをマツラは見逃さなかった。

 それは、本当に穏やかな時間だった。

 ここにいれば、時間はかかっても何事も順調に進めるような気になる。
 村にいた頃とはまるで違う。
 見えない何かに急かされる事もなく、安心して過ごせる場所。
 ケムリはきっと背中を押してくれるし、ユウヒはいつも穏やかな笑みでもって見守ってくれる。ツツジはこう見えて意外と頼りになるところもある。
 カル・デイラは、平和以外の何ものでもなかった。

 その夜更け、急に降り出した雨が木の葉を叩く中、空から黄金の毛並みをもつ獣が降り立ってくるまでは。

 雨に濡れた金色の獣の背には闇に溶けるような黒ずくめの格好の男。魔術師の家の戸を叩いた男は、雨音に負けない大声をあげた。

「ツツジ・ナハはいるか!」 

 戸を叩く音とその声に慌ててドアを開けたユウヒは、男の背後に立つ、獅子に似た黄金の獣を見て出そうになった悲鳴を飲み込んだ。
 名前を呼ばれているとあって続いたツツジと、その後ろから顔を出したマツラも、その獣が視界に入った瞬間声を失う。戸口に立っている男の左頬に走る大きな傷跡は、二人の恐怖を煽るにはじゅうぶんだった。

「こんな時間に悪いが、ツツジ・ナハを出してくれ。 俺はそいつに用がある」

 濡れた黒髪の下から、鋭い薄い水色の瞳が三人を見、その視線がツツジに固定された。
「おまえがツツジか」と言う男から放たれる雰囲気は明らかに普通の人間のそれではなく。こわばった表情で男と金色の獣を見るツツジを、急な来訪者から隠すように間に立ったユウヒは気を静めるように息を吸うと、男を見上げた。

「非常識な時間に来たと認識しているなら、出直してきて頂けるかしら?」

 普段おっとりと微笑む茶色の瞳が、目の前の男にもひけをとらない眼光で相手を睨む。日常の彼女がどこかへ消え失せてしまったかのように、ユウヒの穏やかな雰囲気がすっかり息をひそめ、その背から放たれる凶暴とも言える空気。
 それを面白がるように、男が笑った。

「あんたが戦闘狂だと噂に名高い火の秘書の娘か?」
「……重ねて失礼な方ね。女性に向かってそんな言葉を向けるものではないわ」

 わずかに首を傾げる仕草はまるで少女のように。しかしその目は油断なく男を見ていた。
 マツラからは、そのユウヒの表情こそ見えないものの、この状況が良いものでない事だけは明白。
 見知らぬ男に名指しで指名されたツツジは、青ざめた顔で男を凝視して立ち尽くしているし、ユウヒと男から発せられる雰囲気も尋常ではない。ツツジとこの男の関係がどんなものかは知らないが、この様子を見れば、少なくとも彼らが親しい間柄でなく、さらに言えば初対面ですらあると簡単に察する事ができた。
 間の悪い事に、ケムリは裏庭のほうで飼っている猫の様子を見てくると言って出ていった後で、急な来訪者にも気付いてはいないだろう。
 早くケムリを呼んでこなければ。
 マツラの視界の隅、闇の中で淡い光を放っているかのような美しい金色の毛並みの獣。獅子のような姿をしていながらさらりとした馬のような尾。獰猛そうな顔の獣は見るからに普通の動物ではない。この動物が一体何なのか。
 それは後で聞くとしても、まずはケムリに間に入ってもらう事が先決だ。
 背筋を伸ばして男を見上げているユウヒの背中がどんなに強く見えても、彼女とツツジだけでは男の連れていた金色の獣が何かしたときに無事で済むとは思えない。
 男はユウヒを戦闘狂だと言った。マツラにその真偽はわからないが、今のユウヒは、ともすれば金色の獣を連れてやって来た男と差し違えてしまいそうな気さえした。
 恐怖せいか、緊張のせいか、こわばった心臓が大きく跳ねるのを感じながら、マツラはじり、と廊下を後退していった。

 裏口を開けると、雨をしのげる軒下で膝に猫を乗せたケムリと目が合う。

「師匠! どう見ても一般人じゃない人が来てユウヒさんと睨みあってます!! 見たことのない猛獣もいるし、早く表に行ってください!!」

 マツラの言葉に、ケムリは怪訝そうな顔をして、膝の猫をおろす。

「どういう事だい?」
「私が聞きたいです! ツツジに用があるって言ってるんですけど、絶対カタギの人っぽくなかったです! 早くしないとユウヒさんが差し違えちゃう!!」

 掴み掛からんばかりのマツラに、「ユウヒさんなら大丈夫だ」と答えたケムリは大股で玄関のほうへ。それを追いながら、少し声を落としてマツラは問う。

「なに言ってるんですか! 大丈夫なわけないですよ!」

 相手を見てもいないのにどうしてそんな事が言えるのか。焦りと非難の色の濃い彼女の言葉に、ケムリは歩きながら答えた。

「猛獣はともかく、男だけならユウヒさんでも何とかできるさ」

 彼女だって、昔はたくさんの修羅場をくぐり抜けたんだ、と続いた言葉に今度はマツラが眉を寄せる番だった。
 黒ずくめも男も、ユウヒに向かって戦闘狂と言っていた。確かにケムリとユウヒはどちらかと言えばかかあ天下で、ケムリがユウヒの尻に敷かれているようなところも目立つ。それでもユウヒは、ケムリと違って魔術師ですらない、ただの主婦だ。しかも普段の彼女は、どこか育ちのいい娘のようにおっとりしている。
 そんなユウヒが、ほんとうにあの男を何とかできるのか?
 マツラには、ケムリの言葉が到底信じられなかった。

 少し遅い師の到着。
 ケムリの足音にツツジが振り向き、明らかに安心したような表情を浮かべ、そんな弟子にひょいと右手を挙げてみせたケムリは、ぴりぴりした空気をまとって向かいあう自分の妻と見知らぬ男の姿に目をとめ、非常に残念そうにユウヒの背中を見た。

「僕もユウヒさんの熱い視線を一身に受けたいんだけどねえ。どこの誰か知らないが、羨ましいかぎりだよ」
「ふざけてる場合ですか!!」

 重なる二人の弟子の声。
 ケムリはそれを無視してドアの向こう、庭に立つ金色の獣を見ると小さく口笛を吹いた。

「こりゃ驚いた。魔獣じゃないか」

 一瞬足を止め、そのままユウヒの隣に行くケムリに全員の視線が集まる。

「魔獣ですって? あれが?」

 ユウヒが器用に右の眉をはねあげ、庭の獣と目の前の男を再び見比べた。
 魔獣とは生まれながらに魔法を使う事のできる獣の総称で、その特徴は大きな身体と極めて高い知能。そのほとんどが美しい毛並みを持っている。
 群を作らず、人里離れた場所に住み、決して人に従属する事は無いというその獣は、凶暴な見た目と裏腹に温厚な性格をしている。故に、普通に生活していれば野生の魔獣と会う事は滅多に無い。
 ユウヒは、男から目を離さずに、攻撃的な棘の残る声で問う。

「つまり、あなたが最後の魔獣使いスコ・フラスだと?」

 最後の魔獣使い。
 そう呼ばれた男は、にやりと笑って親指で金色の獣を指した。

「こいつを連れてる時点で察して欲しかったもんだけどな。どうやらそこの子供らとおまえさんの嫁には解らなかったようだ」

 大人たちの背後では、手を取り合うようにしてマツラとツツジが事の成り行きを見守っている。
 そんな二人を視界の隅に捕らえ、「俺もまだまだ無名だな」とぼやくスコ。
 決して他の生き物に懐柔される事のない魔獣。そんな獣と古くから共に生きてきたのが彼の一族であり、だからこそ彼ら一族は"魔獣使い”と呼ばれてきた。
 スコにとって、魔獣は家族と同じであり、幼い頃から心を通わせてきた友でもある。
 その力は修行や才能でどうにかなる物ではなく、遺伝でのみ発現する。古い言い伝えでは、彼らの祖先は魔獣により生まれただとか、魔獣と人間の混血だったと言われているが、スコ・フラスという男にとって、いつのものとも知れない昔話はどうでもいい事だった。
 重要なのは、彼はその血族の最後の一人だという事。故に”最後の魔獣使い”の名を戴いているという事実と、それによる知名度だった。
 魔術師たちの界隈で、自分にはそこそこの知名度があると理解しているスコは口もとだけに笑みを浮かべてケムリに手を差し出した。

「カル・デイラの魔術師、ケムリ・マリだな? あんたの嫁さんにも怒られたばかりだ。一応名乗っとくか?」
「いや、その必要はない。初めまして、スコ・フラス。魔獣使いがこんなところに何の用で?」

 生憎、ここにはイノシシくらいしか出ないよ。
 差し出された手を握り返したケムリの言葉に、鋭い視線を一瞬ツツジに向けたスコは水滴の滴る前髪をかきあげた。

「ツツジ・ナハだ。俺はあんたの弟子に用がある」