逃走レストラン(サンプル)

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もくじ
1.屋台で買う甘辛たれの串焼き肉
2.おなかに優しいあったかスープと、ふかふかロールパン
3.とろけるりんごの幸福のアップルパイ


1.屋台で買う甘辛たれの串焼き肉

 祭りで賑わう広場は、食べ物の屋台から流れてくる匂いで満ちていた。
 甘くて、香ばしくて、スパイシーで、お腹のすく匂い。
 この日をただただ楽しみにしていたアリシアは、まずは手始めとばかりに果物とクリームを巻いたクレープにかぶりついた。

 口のなかいっぱいに広がる甘さに、思わず頬が緩んで幸せの声が出る。

「あと三個はいける」

 それをしないのは、広場に整然と並んだ他の屋台の食べ物を買わないといけないから。
 次はどの店の、何を食べようかと口を動かしながら周りの屋台を注意深く観察していると、急に広場の反対側がざわつき始める。
 なんだろう、と首を傾げるアリシアの耳に、近くで喋る声が聞こえた。


「カッセル教会の巫女様が、今日たまたま近くを通ったからって祭りに顔を出してくださるんだって」
「こんな田舎の祭りに来てくださるなんて、なんて有り難いことだろうねぇ!」
「魂読みの巫女様のお姿を拝めるなんて、この先一生無いんじゃない?」

 興奮する人たちの言葉に、アリシアは軽く笑って残りのクレープを口に入れた。

 教会の巫女様がなんぼのもんか知らないけど、このあたしより美人なはずがない。
 それよりも、次は甘辛タレのかかった肉の串焼きだ!

 広場の歓声を背に、屋台のおやじにとっておきの笑顔を向ける。

「おじさん! 串肉一本お願い!」
「はいよ!」

 きっぷの良い返事をしたおやじが、慣れた手つきでたっぷりとタレのかかった串肉を差し出し、代金を渡したアリシアは「どうもありがとう」と会釈をして店に背を向けた。

 ――目の前に広がっていたのは、割れた人の波と、その先に立つ女。
 薄い茶色の瞳と目が合う。
 一瞬の静寂にまばたきをすると、彼女の白い指がまっすぐにアリシアを指さした。


「災厄を呼ぶ魂。そしてその器。あの娘を捕らえなさい」


 ほんの数秒の沈黙も与えず、女の両脇から人垣に挟まれた道に聖職者の黒い服を着た男が三人、飛び出してくる。
 きょろきょろを周囲を見れば、誰もがアリシアを見ていた。
 こわばった表情で。興奮した表情で。そして、哀れみの表情で。

「は? まじ?」

 串肉を握り締めて、アリシアは顔をひきつらせる。
 三人はアリシア目がけて走ってくるし、周りの人たちは後ずさりこそすれ誰も助けてくれる気配なんて無い。

 当たり前だ。

 教会の、しかも魂読みの巫女に災厄を呼ぶ魂の器だと認定された人間に手をさしのべてくれる人間なんているもんか。
 自分も彼らと同じように今から始まる捕物帖を娯楽とばかりに眺めるだろう。
 残念なのは、今自分がそのギャラリーじゃないという、ただ一点のみ。


「っくっそ!! 捕まってたまるかばかやろう!!」

 捨て台詞とばかりに叫んで、黒服に背を向けて走り出す。
 観客から大きな声があがったけれど、それを気にする余裕なんてない。
 なんせこっちは当事者だ。
 道を塞ぐ人間を睨みつけ「どけ!」と怒鳴りながらアリシアは風のように広場を駆け抜けた。

 太陽は山際に沈み、茜色の光が西の空と山々を染めていた。
 東の山は迫り来る宵の闇に包まれ、その陰だけを藍色の空に黒く浮き上がらせる。
 息を切らせながら、アリシアは橋のたもとで足を止め、後ろを振り返った。
 広場のざわめきはすでに遠く、けれど確かに聞こえるのは自分を追いかけている人間の声。

「見世物じゃないっての!」

 目立つのは好きだけど、今後の人生をかけてこんな目立ち方をしたって嬉しくもなんともない。
 どうせ目立つのなら、聖都に行っても天下を取れると言われている、この美貌を最大限に生かした目立ち方をしたかった。


「くっそ~~~~~~!!」

 悪態をついて、橋の真ん中から川を見下ろす。

「ふっざけんなよ、あの女! この! あたしが! 災厄を呼ぶ魂の器だぁ!? 知るか!!」

 かぶりついた串肉は、すっかり冷えていたけれど異常においしかった。
 今日は屋台のものを沢山食べようと、一食抜いていたから。
 本当なら、串肉の次は総菜パンと菓子パンをそれぞれ買うつもりだった。
 飴菓子だって、芋菓子だってまだ食べていない。
 なのに。
 それなのに。

「絶対ただじゃおかない……そもそもあたしの美しさがここで失われていいはずない……一泡吹かせてやる……覚えてろよ、クソ巫女」

 恨みを込めて低く言い放った耳に、さっきよりも鮮明にアリシアを探す声が聞こえてきた。
 声のほうを一瞥して、残りの串肉を飲み込むと、アリシアは意を決して橋桁に足をかけた。

 教会様がなんぼのもんか。
 思うようにはさせない。
 絶対に生き延びてみせる。
 逃げ切って、魂読みの巫女に目に物みせてやる。
 このアリシア・ローウッド、田舎生まれの田舎育ちではあるけれど、聖都の女なんかに負けるようなタマじゃない。
 顔も、もちろん性格も!!

 決意を胸に、肉の刺さっていた串を投げ捨てると、アリシアは暗く冷たい水の流れる川に身を躍らせた。


2.おなかに優しいあったかスープと、ふかふかロールパン

 あたたかい、やわらかい、心地良い。
 優しいぬくもりに、アリシアはもぞもぞと寝返りを打って、ぱちりと目を開けた。


「どこ、ここ」

 上品で高級そうな調度品の置かれた部屋。
 ふかふかのベッドに、さわり心地のいいシーツ。窓にかかった分厚くて重そうなカーテン。
 アリシアは、今まで見てきたどんな家よりも立派で、金のかかっている部屋を呆然と見回した。
 ごくりと唾を飲み込んで、恐る恐るベッドから降りると、床に敷かれたカーペットが優しく足の裏を包んだ。
 こんなに上等な敷物を敷くような家、知らない。

 川に飛びこんで、水の冷たさと服の重さに息が詰まったのを覚えている。
 裾の長い服では泳ぐ事もできなくて、脱ぎ捨てる事ができなかったお気に入りのワンピースを恨めしく思った。
 問題は、その後だ。

 一体自分はどうなった?

 情けなくも意識を失っている間に、魂読みの巫女の手下に捕まってしまったのか?
 でも、捕まえた人間をこんな上等の部屋にひとり置いておくだろうか?
 考えても答えは見えない。
 ならば、とアリシアは注意深く、これまた立派なドアに向かった。
 もし誰かいれば、何か教えてもらえるかもしれない。
 万が一、ここが教会の施設だった時は全力で抵抗するのみ。
 武器の代わりにと棚の上の燭台を右手に、アリシアが触れるより先に、金色のドアノブが小さな音をたてて動いた。

「!」

 息を呑んだのはアリシアと、ドアを開けたまだ若い女。
 茶色い目をいっぱいに見開いた彼女が着ている服から察するに、どうやらこの屋敷の召使いのようだった。

「良かったぁ! 目が覚められたのですね!!」

 安堵のにじむ声をあげてから、彼女は慌ててアリシアに頭を下げる。

「あっ、わたしはクラリスと申します! 両親といっしょに、この別荘の管理をしています!」
「そ、そう……助けてくれてありがとう」

 きらきらした瞳で見上げてくる小柄な女の勢いに押されて、少しばかりたじろぐアリシアは、持っていた燭台を背後に隠す。

「お礼は坊ちゃまに言ってくださいな。あの人が人助けするなんて、珍しいんです!」

 毒の無い笑顔でにこにこと言い放ったクラリスは、さらにその調子で続けた。

「ずーっと寝言で許さない、覚えてろって言われるものですから、ちょっと怖くなってきた所だったんですよ。あと、飯をよこせ、って!」
「……」

 いくらなんでもそんな寝言は言わないと反論したかったが、祭りの屋台で食べる事のできなかった物が次々と脳裏をよぎって、アリシアは口を閉ざす。
 それがいけなかった。
 アリシアの沈黙を代弁するように、ぐぅぅぅ、と鳴り響く腹の虫。
 それを聞いたクラリスは、アリシアが口を開くよりも素早く「やっぱりお腹がすいているんですね!」と合点したように手を合わせた。

「ちがっ」
「大丈夫ですよ、任せてください! 料理は得意なんです!」

 弁解するのを聞きもせずに、言うや否やぱたぱたとクラリスは今来た廊下を戻っていく。


「……子犬みたいな女」

 悪意のない笑顔に、跳ねるような声と、使用人と呼ぶには少しばかり落ち着きのない動きに、アリシアはぽつりと呟いた。
 それにしても、自分を助けてくれた坊ちゃまとは何者か。
 その男は、味方なのだろうか?
 そして料理は得意と言い切ったクラリスは何を持ってきてくれるんだろう。
 見るからにお金持ちの屋敷だ。きっと豪勢なものが出されるに違いない。

 ぐぅ。

 再び腹の虫が鳴いて、アリシアは観念したようにどさりとソファに身体を預けた。

「おなかすいた」

 何かを考えるのは、腹を満たした後にしよう。
 空腹は敵だもの、と自分に言い聞かせてクラリスを待つ事に決める。
 どうして食事を待つ時間はこんなに長いんだろう。
 やがて待ちきれずにそわそわし始めた頃、ワゴンに食事を載せたクラリスが戻ってきた。

 真白い皿に乗った、こんがり焼き色のついたパンと、野菜のスープ。

「はい、どうぞ召し上がってください!」

 にこにこしてテーブルの上に置かれた二品に、アリシアは目の前の食事とクラリスを見比べる。

「たったこれだけ!?」

 それはそれは豪華な食事が出ると思っていたのに!
 期待を裏切るたったの二品! パンとスープだけなんて、あんまりすぎる!
 しかし、クラリスはくるくるした目を見開いて、とんでもないとアリシアを諭す。

「お嬢様、目が覚めてすぐに、しかも溺れて流されていたというのにいきなりお腹いっぱい食べてはいけませんよ? きっと美味しいから、食べてみてください」

 にこりと笑いかけられて、嫌だとは言えなかった。

 渋々銀色の匙を手にとって、スープを掬う。
 小さく刻んだ葉物と根菜、あとはベーコンを薄味で煮ているようで汁の色はほぼ無色。
 しかし、立ち上る湯気からはいい匂いがして、アリシアはごくりと唾を飲み込んだ。
 二、三回息を吹きかけてから口に入れる。
 想像した通りの、けれどクラリスが「きっと美味しい」と豪語しただけの味。
 野菜はどれも舌で潰せるくらい柔らかく煮えていて、ベーコンから出た塩味と旨味がしっかりとスープに溶け込んでいる。
 口に含んで、飲み込んで。
 自分の身体が思った以上に冷えている事に気が付いた。
 熱いスープが喉を通って、胃に届くのが食道を通り過ぎていく熱でわかる。

 優しい焼き色がついたパンもふわりと温かく、ひとくち分ちぎっただけで普段アリシアが食べていたパンとは格段に柔らかさが違うとわかる。
 どきどきしながら口に近付けると、それだけでいい匂いがする。
 口の中に入ったパンは、ふかふか。
 ついさっきまで自分が寝ていたベッドと同じ、いや、それ以上に温かくてふかふか。
 そして口の中の水分を奪わない!


「っ……おいしい……!!」


 贅沢にバターが使われているのは、食べる前から香りで気付いていた。
 ふわふわであたたかい、焼きたてのパン。
 これは、お金持ちのパンだ。
 だって全然違うもの。
 ぱさぱさしていないし、固くない。
 香ばしくて甘い、豪華な匂いがする。


「お口に合ったようで、安心しましたぁ! 慌てずにゆっくり食べてくださいね」

 満足げに、にこにこと微笑むクラリスに、アリシアはもぐもぐと口を動かしながら無言で何度も頷いた。

   * * *

 空腹を満たしたアリシアは、壁にあった鏡で軽く髪を整える。
 少し癖はついているが、おろされた金色の髪は柔らかな光をまとってアリシアの顔を縁取っていた。
 改めて見ると、白いネグリジェは今まで着たどんな服よりも肌触りが良くて、ただの寝間着のくせに自分の一番お気に入りで上等の服よりも上質な事に少し腹が立った。
 言われるまでもなく、そして確認する必要もなく、この屋敷の持ち主が贅沢のできる金持ちなのだとわかる。


「どうせなら、若くて顔のいい男がいいわね」


 これからクラリスが連れてくる、この屋敷のお坊ちゃん。
 玉の輿にでも乗れるなら、相当な幸運。
 味方になってくれる人間なら、ラッキー。
 最悪、教会の関係者じゃければもう何でもいい。
 期待してしまうのは、まだ夢を見たい乙女の性だ。
 でも、もしも相手が敵だったら、そのときは――

 深呼吸を一回して、窓に近寄る。
 外はのどかな田園が広がっていて、少し離れた所に川が流れていた。
 もしや自分はあの川を流れてきたのだろうかと、下流にある町や村を思い浮かべたが、窓の外の景色に一致する場所に心当たりは無かった。

 いつでも来いと腹を括る事しばらく。
 二度のノックで屋敷の坊ちゃまは来訪を告げた。
 アリシアの返事を待ってドアが開き、入室してきたのは知的な眼が印象的な青年だった。顔も悪くない。
 しかしクラリスには悪いが、彼は
「坊ちゃん」
と呼ぶにはあまりに成長しすぎているような気がする。
 恐らくその呼び方は、幼い頃から彼を知っているごく親しい人間の特権だ。


「あなたが、わたしを助けてくれたの?」

 ほんの少し警戒を滲ませるアリシアに、彼は頷く。

「美しいお嬢さんが溺れているんだから、無視するなんてできるはずが無いでしょう?」

 口角をあげた男の言葉が白々しく聞こえ、アリシアは左足を後ろに引く。

「名前を聞いてもいいかしら?」

 いざとなったら、逃げる。
 問いに、青年は「もちろん」と胸に手を当てた。

「これは失礼。俺はギルバート。ステイプルズ家の次男で、今は休暇を利用してこの別邸に滞在していたんです」

 軽く腰を折ったギルバートの気障ったらしい動きに鳥肌が立った。

 なんだか、とっても、嘘っぽい。
 ……ような気がする。

 相手の動きに注意しながら、アリシアはそっと棚を確認する。
 ご飯を食べる前に戻した武器、こと重量感満載の燭台は、まだそこに鎮座していた。

「そんなに怖い顔をしないで」

 微笑む男は、相変わらず嘘っぽい笑顔で言う。

「いや無理」

 短く即答して、アリシアは素早く棚から燭台を掴むと、目を細めた。

「だってクラリス、お坊ちゃんは滅多に人助けはしないって言ってたし。何者かもわからない娘を助けて、無欲なわけがない。しかも、あたしは」
「とびきりの美人」
「そう!」

 挟まれた褒め言葉に大きく頷いて、ギルバートを睨む。

「本当の事を言いな。何も企んでないなんて嘘に決まってる。嘘ついたってあたしは分かるんだからね」

 低く凄むアリシアに「まるで盗賊だな」と息を吐いてギルバートは両手を肩の高さにあげる。
 軽く引きつった口元は、笑おうとしているようだった。

「わかったから、本気で殴りかかろうと思ってるんならやめろよ。騒ぎは起こしたくない」
「それはアンタの答え次第だよ、お坊ちゃん」

 騒ぎを起こしたくないのはこっちも同じだけれど、それは言わないでおく事にして先を促すと、観念したのかもう一度溜息をついて、ギルバートはまっすぐにアリシアを見た。


「面白そうだったから助けただけだよ」
「ふざけてんの? こんな美少女捕まえて言う事がそれ?」

 あまりに短くあっけない答えに燭台を軽く振り上げた。
 もっとあるだろう、他に。
 だが、さっきまでの嘘っぽい笑顔とは一転、どこか無気力で人を小馬鹿にした薄い笑みを張り付けて、男は続けた。

「美少女だから助けたんだろ。あんな夜中に川岸に打ち上げられている女なんて訳ありに決まってる」


 この、クソつまらない日常に、刺激が欲しかった。

 うんざりしたように続いた言葉に、神妙な顔で考える。
 もしかしてこいつ、敵じゃないのかもしれない。

「アンタ、教会の人間じゃないのね?」

 返答によってはすぐ攻撃できるよう、燭台を構えたまま。
 ギルバートは、今度こそはっきりと馬鹿にした笑みで肩をすくめた。

「フィンドレイに所属する人間が、教会の人間なわけないだろう。むしろ逆だ、逆」

 にやにやと笑って、彼はアリシアを眺める。

「そうか、お前教会から逃げてるのか。何やらかした? どっかの妻子持ちでもたぶらかしたか?」
「失礼言わないでくれる!? なんもしてないから逃げてるの!」

 とんでもない侮辱に頭に血が上る。

「こっちは生死かかってんだよ!」
「おっ、生死かかってるんなら相当だな」

 顎に手を当てたギルバートの、人をおちょくる態度に苛立ちだけが大きくなる。

「教会から逃げる理由を教えろよ。面白かったら助けてやってもいいぜ」
「アンタねぇ……」
「怒るなよ。悪い話じゃないだろ? カッセル教会とやり合おうっていうんなら、フィンドレイ以上に心強い味方はない。田舎の野蛮な小娘だって、そのくらい知ってるはずだ」

 意地の悪い笑みで言うギルバートに唇を噛む。

 敵ではないが、味方と言うにはあまりにも性格が悪すぎる!
 頼るのは癪だが、頼れる人間が誰もいないアリシアにとって、ギルバートの申し出はこの上なく有り難い。
 この男が本当にフィンドレイに所属しているのならば、絶対に、何があっても断ってはいけない。


「アンタが本当にフィンドレイの学者さんだっていう証拠はあるの?」


 念のためにと証拠を求めれば、にやにやと笑うギルバートは襟の中に手を突っ込んでペンダントを引っ張りだした。
 飾り気の無い紐の先にぶら下がっているのは、本の形をした金色の飾り。
 世界の最先端の学問と研究が集まる街、学都フィンドレイの紋章。

「お前みたいな田舎もんが見てもわからんだろうが、こいつはフィンドレイで学び、研究する人間に与えられる証だ」
「……理由を話したら、本当に助けてくれるんでしょうね?」
「面白かったらな。つまんねえ理由だったら知らん」
「絶対面白いから覚悟して聞きな」


 こんな境遇の人間、そうそういないんだからつまらないとは言わせない。
 仮に嫌だと言われても、なんとかして助けさせる。
 ギルバートと一緒にフィンドレイに行けば、道は開ける確信があった。

 だってあの街には、神様がいないから。

 教会の無い町、学都フィンドレイ。
 学びの都は神の加護を拒否して、自らの研究をもって街を護っている。
 どの街にも村にも、必ずある教会を持たない唯一の都市は、だからこそ教会に顔を向ける事のできない人間も多く流れてくるという。
 そのせいでカッセル教会と学都フィンドレイは対立する事がしばしばある。

 はなから、強い信仰心もない。
 熱心な人たちは学都を罰当たりの集まる場所だと言うけれど、教会から“災厄を呼ぶ穢れた魂を持っている”と宣告された自分には、神に徒なす者が集うと揶揄される街のほうがお似合いじゃないか。


「あたしの話を聞いたら、四の五の言わずにフィンドレイに連れて行きなさい」


 そしてアリシアが教会に追われるに至った理由を聞いたギルバートは「やっぱりお前を助けて正解だった」と意地悪に笑った。


3.とろけるりんごの幸福のアップルパイ


「やっぱりだめです! わたしのお下がりでは映えません! お嬢様はとっても美人さんなので、立派に仕立てたお洋服を着るべきです! 坊ちゃんもそう思うでしょう!?」

 学都へ出発する朝、響いた声は悲鳴に似ていた。
 アリシアが着た服の、少し短い袖を見てクラリスは盛大に嘆く。
 確かに袖は少し短いけれど、苦しくて着れないという事もないし、それ以外はゆったりとしていてなんの問題もない。
 と、アリシアは思っていた。


「馬鹿かおまえ。こいつはお嬢様でもなんでもないって何度も言ったろう。野蛮人のために立派な服を仕立てるほど、暇じゃありませーん」

 が、クラリスに言い返すギルバートの言葉は聞き捨てならない。

「誰が野蛮人だクソ学者」
「そうですよ! 坊ちゃんのわからずや!!」

 睨むアリシアと大きく頷くクラリスに「はいはい」と適当な返事をして、ギルバートは馬車に乗り込む。

「さっさと乗れ。もたもたしてると置いて行くぞ」
「わかってるわよ! クラリス、ありがとね」

 感謝の笑みを向けると、子犬のような使用人は瞳を輝かせて左右に首を振る。

「とんでもないです! 道中、坊ちゃんが迷惑をかけるかもしれませんが、そんな時は遠慮せずに怒ってやってください! それと、アップルパイを作ったんです。後で食べてくださいね」

 差し出されたかごに、今度はアリシアの目がきらきらと輝いた。

「アップルパイ!! ありがとうクラリス! 大切に食べるわ!」

 抱きつかんばかりの勢いでかごを受け取って、急かすギルバートに返事をする代わりに馬車に乗り込む。
 走り出す馬車の窓から手を振るアリシアの向かいで、ギルバートは「呑気なもんだな」と呟いて。
 それでも大きく腕を振っているクラリスに、仕方なさそうにひらひらと手を振っていた。

 フィンドレイまでの旅路は二日間。
 決して長くは無いが、知り合ったばかりの男と過ごす二日間は、とてもじゃないが短いとは言えない。
 ぼんやりと外の景色を眺めながら、貰ったパイはいつ食べようか、今日の夕食は何だろうかと思いを巡らせ、まだ見ぬ学都はどんな街なのだろうかと想像する。
 暇で仕方ないが、馬車の中ではそれくらいしかする事が無い。

 ふと視線を感じてギルバートを見れば、切れ長の眼がじっとこちらを見ていた。

「なに?」
「観察。田舎の野蛮人のくせに黙ってれば文句無しの顔してると思って」
「観察ぅ? 人をなんだと思ってんだよ」

 思いっきり顔を顰めてギルバートを睨み返す。
 てっきり、また呆れ顔の答えが返ってくるのかと思っていたが、意外にまじめな表情でギルバートは僅かに目を細めた。

「お前、これから苦労するぞ」
「苦労ならとっくに始まってる。あんただって知ってるでしょ」

 わかりきった事だ、と口をへの字に曲げて、アリシアは再び窓の外へ目を向けた。

   * * *

 いつも使う宿屋だと、ギルバートは言っていた。
 旅は予定通りに滞りなく進み、到着した宿屋で受付に向かった御者は少しばかり焦ったような顔で戻ってきた。

「どうしたんだろう。表情が暗いけど」
「……お前、ここで待ってろ」

 外に出ようとしていたアリシアを止めて、ギルバートは先に馬車を降りるとバタンとドアを閉めてしまう。

「ちょっと!」

 抗議の声は無視されて、頬を膨らませたアリシアは代わりにどんな会話も聞き漏らすまいと集中した。


「坊ちゃん、まずいですね。アリシアさんの事が噂になっています。教会の巫女により災厄を呼ぶ魂を持っていると宣告を受けた、それは美しい娘が逃げている、と」
「予想通りだな。あいつは、目立ちすぎる」


 目立ちすぎる、という言葉にアリシアは目を見開いた。
 それの何が悪いのか!
 否、美しさが罪ならば、目印にされる程美しい自分の顔はある意味勝利じゃないか?

 はあ、と溜息をついたギルバートに、御者が「どうしましょうか」と意見を求める。

「どうもこうも無い。最初の予定通り部屋を取ったんだろ? 俺はあの馬鹿に仕度させる」

 相手の返事を待たず、ギルバートは馬車に戻ってきて、再び開いたドアが閉まってから、アリシアはその襟元を掴んでぐいと引き寄せた。

「どういう事? 教会のやつらがここにいるの?」
「離せ。こういう事するから野蛮人って呼ばれるんだ」
「答えになってない」
「……わかったわかった。教会の人間はまだ来ていない。が、お前の事はかなり広まってる。何日か経ってるしまあ当然の事だ。で、このまま普通に外に出られると困るわけだ。わかるか?」
「それくらいわかる。じゃああたしは一晩この中ってわけ?」
「ちゃんと考えてるから離せ!」

 力づくでアリシアの腕を引きはがしたギルバートは、座席の下から布袋を引っ張り出してずいと差し出す。

「今すぐ着替えろ」
「は……はァ!? ふざけてんのか!」

 言うやいなや、奪い取った袋を振り回してギルバートにぶつけた。

「いってぇ!! やめろ暴力女!」
「どっちがだ! 変態学者!」
「変装するっていう発想すら無いのか!」
「だからって今ここで着替えろとか正気か!!」


 狭い空間での攻防は、圧倒的にアリシアが優勢だった。
 隅に追いやられたギルバートは、今にも飛びかからんばかりのアリシアに説明を始める。

「いいか、その中には俺の古着が入ってる。まず着替えろ。設定は、体調の悪い俺の友人だ。宿に入っても、絶対に喋るな。明日の出発までは絶対に部屋から出るな」
「よくまぁ、ぺらぺらとそんな事を思いつけたもんだ。で、そうなるとあたしだけ夕食抜きじゃない?」
「……まず飯の心配か。クラリスの焼いたパイがあるだろ。茶でも持って行ってやるからそれで我慢しろ」


 まだ手をつけずに取っておいたアップルパイ。

「ひとりで食べていいの?」

 おいしいおいしい、アップルパイ。
 いつ食べようか考えていたら、いつの間にかおやつの時間も過ぎていてタイミングを逃してしまったアップルパイ。
 多分、おそらく、ぜったいに、人数分用意されているであろうアップルパイ。
 それを、この男は一人で食べていいと言っているのか?
 太っ腹すぎやしないか?

 期待を込めて目をきらめかせるアリシアに、ギルバートはゆっくりと言い聞かせる。

「あのな、一応言っておくが飲まず食わずで一晩待てと言うほど、俺はひどい人間じゃない」
「全部食べていいとか、意外と優しいじゃん!」
「意外とは余計だ。いいから、早く着替えろ」
「わかった。アップルパイの独り占めできるんだ。ギル、あんたの提案に従うよ」


 そうして袖を通したギルバートの服はクラリスのお下がりほどぴったりではなく、なんとか見れるように袖を曲げ、裾を曲げて、深く帽子を被ってコートを着込んでアリシアは無事に宿屋に入っていった。
 もちろん、約束を守ってひと言も喋らずに。
 一人部屋に入ってから、ふうと息を吐いて帽子とコートを脱ぎ捨てて、靴も放り投げるようにして脱いで簡素なベッドに倒れこんだ。
 ギルバートの家のベッドほど上質ではないけれど、ぐっすり眠るにはじゅうぶんだ。

「つかれた」

 仰向けになった天井を見上げると、どっと疲れが襲ってくる。
 慣れない事をしたから。
 それに普段、こんなに座りっぱなしになる事もなかなか無い。

 さて、元気の出る明日のためにも、あとは持ち込んだアップルパイでお腹を満たそうじゃないか!
 勢いよく起き上がり、テーブルの上に置いていたかごを開ける。
 丁寧に包まれているパイは、両手の平を合わせたくらいの大きさで、四角く成形されていた。
 きれいな焼き色のついた表面はつやりとしていて、生地の切り込みから、ちらりと中に入っているフィリングが見えている。
 ふわりと広がった香ばしくて甘いりんごの香りに、思わず口元がゆるんでしまう。
 今すぐひとくちかぶりつきたい。
 なんならアップルパイもそれを望んでいる。
 けれど、ギルバートはあとでお茶を持ってくると言ってくれた。
 せめてそれまでは待つべきだろうか?
 目の前のパイは、全部自分のものだけど。

「悩む……」

 お茶は一体いつ届くのだろう?
 お茶が届いたところでこのパイの一切れでもギルバートに譲るつもりは無いのだが。
 ならば今ひとつ位食べてしまっても、何の問題も無いのでは?

「う~ん、どうしよ」

 一刻も早くこの美して甘く愛らしいパイを口に入れたい!
 しかしアリシアはなんとなく気付いていた。

 ここに熱いお茶があれば、きっとこのアップルパイは倍おいしくなる。


「待ちだな」

 結論を出して、ベッドの上に腰をおろす。
 それからしばらくしてだった。
 ドアがノックされ「俺だ」と短いギルバートの声。
 待っていましたとばかりに、いそいそとドアまで行って鍵を開ける。

「待ちくたびれた!」
「悪いがこれでも急いでやったんだ。文句言うな」

 トレイに乗ったポットからは、紅茶の匂いが漂い、アリシアがそれらを受け取ると、ギルバートは改めて念を押した。

「明日の朝、早めにここを出るから今夜はしっかり休めよ。絶対にヘマしないように。噂は広まっている。お前の事がバレたら、流石の俺も助けられない」
「わかってる。今夜はさっさと寝るから」
「ならいいが……明日俺が迎えに来るまで、絶対ドアを開けるなよ?」
「はいはい、わかってるわかってる」

 早くパイを食べたいのに、ギルバートは何度も言い聞かせてくる。
 いい加減面倒になって、アリシアは適当に返事をするとさっさとギルバートを追い出してドアに鍵をかけた。


「さて、と」

 カップに紅茶を注げば、豊かな香りが部屋に広がる。まずはお茶をひとくち、口と喉を潤して、アリシアはパイをひとつ取り上げた。
 
 さくっ、と響く微かな音。
 口の中に広がる、バターとりんごの風味。そしてほんの少しのシナモン。
 たっぷりの砂糖で甘く煮られたりんごは、とろけるほど柔らかく、パイ生地のサクサク感とのバランスが絶妙だ。
 気持ちのいいさくっとしたパイ生地の後には、甘くて幸せなとろけるフィリングが口の中に広がる。


「うっま……」

 どこにも文句のつけようが無い。
 今日一日の嫌な事も、悪い事も、これひとつで帳消しにできる。
 更に最高の幸福は、このパイがたった一つではない事。

「明日からも頑張れるわ」

 ぺろりと一つめのアップルパイを胃に収め、アリシアはふたつ目のパイに手を伸ばした。


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