暴力には反対です

 どうして僕は異国の薄汚い路地裏に転がって青空を眺めているのだろう。
 背中には固くて冷たい地面の感触。胸を圧迫するのは重い靴を履いた男の足。降ってくるのはその男たちが発する品の無い笑い声。

「さっさと謝れよ。これ以上痛い目にあいたくなけりゃあな」

 それは大変な誤解だと、ツツジは小さく呻きながら男を睨み上げた。
 人の多い雑踏の中でぼんやりしていた事は、確かに非があっただろう。しかし彼らにぶつかってしまった事はすぐに謝罪した。
 それでも気の収まらない彼らは、無理矢理ツツジを路地裏に連れ込むと問答無用でその拳を叩きつけてきたのだ。
 その結果がこの有様。
 取っ組み合いの喧嘩すらした事のないツツジはあっけなく地面に転がり、男たちのいいように殴られ、蹴られている。

 異国まで来て、なんて運が悪いんだろうとぼやく自分が頭の片隅にいた。
 痛みに耐えながら、魔法さえ使えればこんなチンピラに負けたりしないのにと歯を食いしばる。
 身体も細く筋力も体力も無い、喧嘩ひとつ経験の無いツツジが、自分よりはるかに体格も良く喧嘩慣れしている様子の彼らに勝てるならば、それは彼が魔法を使って対抗した時だけだ。
 しかし悲しいかな、ツツジは魔法を使うための媒介を家に置いてきてしまっていた。

 それより何より、今彼が滞在しているこの国では魔術師及び魔法は悪しきものだという風潮が強まっている。
 いくら自分の身を守るためとはいえ、ここで魔法を使ってしまえば更に悪い事態を招く事は請け合いだ。

 まさしく絶体絶命。

 男たちは謝れと言うが、何度謝罪の言葉を口にしたところで通じる相手ではない。
 この一連の流れでそれは確信していた。
 ツツジの腕力がかなわない事も一目瞭然。
 相手が悪かったと諦めて、このまま男たちの気が済むまでサンドバックにされ続けるしかないのか?
 不運に不運は重なるものだ。
 しかし、それをあまんじて受け入れていては、師匠に叱責されるだろう。

 行くならしっかりやってきなさい。

 そう言って肩に乗せられた大きな手の重み。
 まだ未熟な自分を送り出してくれた師の言葉が胸に蘇った。

 ああ、このままじゃだめだ。

 未熟な自分に、魔術師本山から直々に仕事の話がきた。
 それはとてもすごい事なのに、まさかその出張先で間抜けにもリンチされましたなんて恥ずかしくて師匠に報告することも出来やしない。
 帰国したとき、胸をはって「ただいま」と言えるようになりたいのに。
 逃げる努力すらせずに汚い地面に転がって、なされるがままに暴行を受けている。こんな状況でいい訳がない。

 立ち上がれ。こいつらから、逃げるんだ。

 ひとけの無い路地裏で、どんなに待った所で助けなど来るはずもない。
 反撃などできなくてもいい。とにかく逃げる事を考えるのだ。それさえ出来れば、あとは走って家へ帰るだけ。頼まれた買い物はひとつもできていないが、事情が事情だけに大目に見てもらおう。
 無残に殴られ続けるよりも、そのほうがずっといいに決まっている。

 意を決して歯を食いしばったツツジは、身体を捻るようにして自分を踏みつけていた男の脚にしがみついた。
 男がわずかにバランスを崩した瞬間、男から離れるように転がって起き上がる。
 我ながらスムーズな動きとは言い難かったが、成功しただけでじゅうぶんだ。
 男を睨むようにして周囲を見るツツジに、下品な笑みを浮かべた男は「生意気だな」と吐き捨てた。

「戦う根性もない女以下のくせに、目だけはクソ生意気だ。気に食わねぇ」
「僕は、女じゃ、ない」

 区切るように強く言い放った。
 確かに身体を使って戦う事は得意じゃない。それどころか全くの不得手だ。
 けれど、だからと言ってこんな街のチンピラに女以下呼ばわりされる筋合いは全く無い。
 武術国と評されるこの国の人たちと比べれば、確かに貧弱で弱々しい体つきをしているが、こう見えても彼は自称「熊と戦って勝てる魔術師」の弟子なのだ。いつかは師のようながっしりした筋肉をつけてやるという、密かな野望だってある。
 目の前の男たちに言えば鼻で嗤われるだろうが、いつか強い男になるという男らしい目標だって、ちゃんと持っているのだ。

「口答えするなよ」

 低く響いた声に微かに混じる狂気を感じ、ツツジは口を閉ざす。味覚が血の味を識別したとき、視界の外からもう一人の拳が飛んできた。
 覚悟する前に襲ってきた衝撃に、そのままよろめいて建物の壁にしたたか身体を打ち付ける。
 痛みに思わず呻いて、ずるりと地面に膝をつく。ひとつに束ねていた髪が、はらりと解けた。

 目つきが気に入らないな、と正面から見下ろしてくる男は二人。背後は壁に挟まれ、これ以上身動きがとれなくない。
 彼らがその好機を見逃すはずもなく、続いて腹にひとつ蹴りをくらい、ツツジは再び呆気なく地面に倒れた。
 頬に感じる地面の感触と、身体に走る鈍く鋭い痛み。声にならない呻き声をあげながら、もうサンドバックになる覚悟を決めるしかないのかと絶望したその時、場違いに澄んだ声がツツジの予感を打ち消すように裏路地に響いた。

「何やってるのかと思ったら、二対一なんて感心しないわねぇ」

 その声は決して怒鳴ったりした訳ではなく。だが、驚くほど良く通り裏路地の空気を震わせた言葉には、明らかな怒気が含まれている。
 場違いに澄んだソプラノに、ゆっくりと声のほうを見れば逆光に縁取られた淡い金髪が光を放っていた。
 声と影だけでじゅうぶんにわかる。まだ若い少女。
 彼女は腕を組んで、男たちをばかにしたように続ける。

「男気溢れるグランディスの戦士なら、明らかに自分より弱いってわかってる相手を寄ってたかって痛めつけるような恥ずべき行為はしないと思うんだけど? それともアンタたち、どっか他所から来た観光客?」

 相手を挑発する語尾を上げる口調は、強気な声によく合っている。
「仕方ないからアタシが加勢してあげる」と彼女が言った次の瞬間、ツツジの目の前から男が吹っ飛んだ。
 驚きに固まるツツジの目の前で、少女のすらりと長い手足が華麗に動いて問答無用で男たちを襲う。
 それまでの状況をまるきり逆転させたように、ツツジの目の前でがたいのいい二人の男がひとりの少女に成す術もなくやられていく。

 意味が、わからない。

 それは相手も同じのようで、何をする、と怒鳴った男に向かって少女は戦いの構えをとったまま愉快そうに答えた。

「先に、そこの可愛い眼鏡ちゃんに手を出したのはアンタたちでしょ。アタシの……オカリ・ユフの舎弟に手を出したらどうなるか、しっかり教えてあげるから、かかってらっしゃいよ」

 彼女の言葉に怯んだのは、当の二人組。
 げぇっ、というひどく間抜けな声をあげ、冗談じゃないと口々に何やら言い残し、まるで逃げ出すように駆けだした。
 呆気にとられるツツジの目の前で、ついさっきまでの凶暴な様子が嘘のように。
 一連の展開には全くついていけなかったが、危機が去ったらしいという事だけは把握して、ツツジは自分の傍らに仁王立ちしている少女を見る。

「大丈夫?」

 目が合うと、首を傾げたオカリはしゃがんでツツジの腕を引いた。大きく息を吸ったツツジはあらゆる場所が痛むのを感じながら頭をさげる。

「ありがとう、ございます」

 助かりました、と言うとオカリは笑いながらツツジの顔をのぞき込む。

「可愛い顔してんだから気をつけないと。ああいう奴らはこっちが弱いと思うとすぐ付けあがってくるんだから」
「……助けて頂いておいてなんですが、それなら貴女のほうが気をつけたほうがいいのでは?」

 見ればオカリのほうがよほど整った顔をしているので、冗談にしか聞こえない。神妙な顔で言うと、驚いたように目を見開いたオカリはまじまじとツツジを見た。

「あんた、アタシの事知らないの?」

 不思議そうな声にツツジは首を傾げる。

「僕ら、今日初めて会いましたよね?」

 至極まじめに返した言葉に、今度は口を半開きにしたオカリは瞬きを忘れたようにツツジをみつめ、距離を詰めた。
 ぐいと迫ってくる整った顔。そこではじめて、赤茶に見えていた彼女の瞳が本当は紅梅色をしている事に気付いた。

 ――武術王デオ・ヒノコと同じ色。

 陽光に透ける淡い金髪に、春告げの花色の瞳。
 グランディス地方における昔話で、魔獣たちを次々と成敗し、国を救った英雄。魔王と戦い勝利を収めた後、この国を統一したという王。
 昔話の王を彷彿とされる瞳にみつめられ言葉を失うツツジに、オカリは再び大きなため息をつくと、困ったように微笑んだ。

「あんた、名前は?」
「ツツジです。ツツジ・ナハ」

 問われるままに答えれば、オカリはひとつ頷く。

「わかった、ツツジね。あんたほんと危なっかしくて心配だから、冗談抜きでアタシの舎弟にしてあげるわ。また変なのに絡まれたら、アタシの名前を出しなさい。きっと何よりも丸く収まるから」

 戸惑ったまま頷くツツジを満足げに見やり、勢い良く立ち上がったオカリは乱れたツツジの髪を優しく撫でる。

「顔、すっごいあざになってるから早く帰って手当したほうがいいわ。男でも顔に傷が残ったら困るでしょ」

 数秒考えるようにした彼女は、それと、と付け加えてにこりと笑う。

「あさっての武闘大会の後、中央広場に来なさい。面白いもの見せてあげるから」

 自信に満ちた表情と有無を言わせない口調に、ツツジの選択肢はただひとつ。

「わかりました」

 武闘大会の後の中央広場といえば、間違いなく人であふれ返っているだろうと、想像するに易い。気乗りはしないが、押しの強い恩人に逆らうのは躊躇われた。
 ツツジの返答に満足したのか、オカリは「約束よ」とツツジの手をぎゅっと握ると、大通りに向き直る。
 頭の横でひらひらと振られる右手。

「じゃあ、またあさって会いましょう。今日は寄り道しないでまっすぐ帰んなさいよね」

 とんでもない子に気に入られてしまったのかもしれない。
 颯爽と去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、ツツジはぼんやりと思った。
 ガタイのいい男二人を簡単に殴り飛ばした彼女は一体何者なのだろう。
 まさかこの国の女の子たちが揃いも揃ってあんな芸当ができるのか?
 そんな事があってたまるものか。
 それとも魔法で男たちを吹っ飛ばした?
 いや、そうは見えなかった。
 あれは紛れもなく体術の類だ。

 万が一、オカリが細い腕や少女らしい身体からは想像もできないような怪力の持ち主だったとしても、空を切って確実に急所を狙った攻撃は、全くの素人であるツツジが見ても気持ちいいほど決まっていた。
 それを彼女の実力と言わずしてなんと言うのか。

 黙っていれば麗しい乙女。
 武術王の色を持つ、あふれんばかりの自信に満ちた女の子。
 次に彼女に会うのがほんの少しだけ、楽しみだった。