スコの言葉に、ケムリは相変わらずの笑みを絶やさない。しかし、その空気がぐっと重量を増したのを、マツラは感じた。
「それは、こんな天気のこんな時間に会わなければいけないような用件かな?」
出直してこい。
暗にそう伝えているケムリに、スコは強気とも皮肉ともとれる笑みのまま答える。
「言っとくが、俺だって好き好んでこんなど田舎まで来たわけじゃない。あんたらと面識があるわけでもないしな」
頼まれたんだ、と肩を竦めながら、スコはちらりと背後に控える金色の魔獣を見た。
「ビカーだって、こんな嵐の中で空を走るのは嫌がる」
それが彼の連れてきた魔獣の名前らしい。
名前を呼ばれたと思ったのか、雨風の音の中に唸る声が混ざった。自然、身構えるマツラたちに、スコはほんの少し表情を崩す。
「安心しろ、こいつは人を襲ったりはしない。あんたらも解ってるだろ?」
「普段から魔獣を見ている訳でもなし。解っていても、恐ろしいものは恐ろしいに決まっているじゃない。わからない人ね」
半歩下がったユウヒはいくらか丸くなった声で抗議する。
マツラはそんなユウヒの抗議にもスコが怒り出すのではないかと気が気でなかった。
金色の魔獣を従えた黒ずくめの男は、彼自身がまるで肉食の獣のような印象を受ける。野を駆ける肉食獣の狩り。その一撃は、素早く鋭利だ。
が、ユウヒの言葉にスコはますます表情を崩した。
「そいつは困ったな。特にツツジ。おまえはこれから、ビカーに乗ってグランディスまで行かにゃならん。唸り声ひとつにびびってちゃ、先が思いやられる」
男の表情や口調は、最初にドアを開けた時よりもかなり砕け、だからこそ、面白い冗談を聞いた時のように笑いながら発せられたその言葉を、一瞬聞き流してしまいそうになった。
誰が、なにに乗って、どこへ行く?
「……訊きなおしてもいいかい?」
僅かな間の後で、ケムリがスコとビカーとツツジを見て、またスコを見た。
さっきまでの張り付けたような笑みすら消えたケムリは確認するように続ける。
「ツツジが、その魔獣に乗って、グランディスへ行く、だって?」
「ああ。そうだ。俺はその伝令を伝えるために水の五老に遣わされてきた」
頷いたスコは懐から一通の封筒を取り出すと「詳しくはその中にある」と言ってケムリに差し出した。
裏返せば、封蝋には水の五老の印が押してある。
「これは……どういう事だ?」
事態がわからずに呆然としている弟子と、彼らを心配そうに見たユウヒ。スコの視界からツツジを隠すようにして立つケムリは、慎重に封を開ける。
有能な弟子の徴集は今に始まった事ではない。しかし、ツツジの場合はダケ・コシ本山の教育にて落ちこぼれの場所にいた少年だった。
規定の教育枠の中にあって、同年の少年少女たちに遅れをとり、どうしても追いつけずにいた。能力が無いわけではなく、やり方さえ変われば友人たちにも追いつけるはずのツツジをダケ・コシの学校からカル・デイラへ引き取ったのは確かに水の五老スイの進言でもあった。
ケムリのもとでツツジが学ぶようになってずいぶんと経ち、確かにツツジはダケ・コシにいた頃よりも大きく成長した。しかし、引き抜かれるほど優秀な弟子なのかと言われれば、それはまた別の話。
ツツジの魔術師としての能力は本山で学ぶ同年代の子供たちと変わらない程度。彼が習得すべき事はまだ多く、引き抜かれる程飛び抜けて優秀かと言われれば、それは師であるケムリも首を傾げるしかなかった。
何より、引き抜きにしてはスコの言う事は腑に落ちない。
五老からの引き抜きであるのなら彼はダケ・コシへ戻るはずで、グランディスへ向かうというのはおかしいのではないか。
書面に目を走らせるうちに、その疑問への答えがあり、次第にケムリの目に怒りに似た色が浮かぶ。
『ツツジ・ナハをグランディスへ派遣すべし。王都ツキサにて2年間の駐在を命じる。任務はグランディス国及び軍の動向の偵察。国境の魔術師ラクト・コヒと共に任務に当たるように。先にグランディスへ向かっているラクトの所までは魔獣使いスコ・フラスに送り届けてもらうように。
詳細はラクトのほうへ送るので、彼に聞きなさい。』
淡々と綴られた内容。
「僕は聞いていない」
自分の弟子が引き抜かれるという事。ダケ・コシ本山へ帰るならまだしも、魔術師に対する反発の感情が強まってきているというグランディスへ行くなど。
共同任務に当たるというラクトですら、一言も言わなかった。
ただでさえグランディスは戦闘民族で成り立つ国。古くから武術が盛んで、魔術国フィラシエルと対を成すように武術国と呼ばれている。今でこそ平和を保ってはいるが、かつては内戦も頻発し、ここしばらくの動向から次の戦いの矛先はフィラシエル、ひいては魔術師になるかもしれないという見方も強い。
そんな所へ、ひと一倍穏やかな気性のツツジを行かせるというのか。
「睨むなよ。一応言っとくがな、これが決まったのはつい三日前の事だ。誰も知らない。当のラクトだって知っちゃいねぇよ。奴への伝達は、今俺が持っている。ツツジと一緒に、ラクトに届ける予定だ」
誰よりも“速い”自分が伝達しに来た、それが何よりの証だと言うスコは「困った奴らだ」と言わんばかりにため息をつく。
「お前が反対だってのは、よーく分かったよ。言う必要も無いと思うが、これは拒否もできる。どうするかは本人にも聞いてみるんだな。行くのはあんたじゃない。ツツジ・ナハだ」
顎でしゃくったケムリの後ろ、少女と共にこちらを伺うまだ頼りない少年。依頼は彼に来た。
「ツツジはまだ未熟だ。修行を止めてまでグランディスへ行く意味を問いたいね」
ツツジがケムリの弟子という立場である以上、師の許可は絶対必要であり、五老からの依頼だったとしても彼らに拒否権は存在する。
相手が下位魔術師だろうと上位魔術師だろうと、そこに依頼として仕事が存在するのなら、双方が合意の上でなければいけない。それが契約である。
「……俺が頼まれたのは、任務にあたるお前らへの情報の伝達と、ツツジ・ナハをラクト・コヒのもとへ送り届ける事だ。ツツジの返事如何では、それも無くなるわけだがな。こっちも先を急ぎたいんだ。明日のうちには答えを頼む。ただな、付け加えてやるなら五老は誰よりも賢く、疑われる事のない偵察を探していた。ダケ・コシで守られてるいい子ちゃんたち以上にガッツのある奴をな。お前んとこのチビが、それにぴったりだった。そういう事じゃねぇのか?」
そう告げたスコは、雨に濡れながら庭に佇むビカーを見、ひとつ頷くと森を指す。
「森に屋根のある建物があるな? 雨だけでもしのぎたい。悪いが一晩休ませてもらうぞ」
言い切った言葉は相手の返事を必要とせず、さっさと背を向けて雨の庭に踏み出したスコに、ケムリはひとこと、「壊したり汚したりしないように」と伝えただけだった。
森に消えていく金色の獣と黒ずくめの男を見送ったユウヒは、力任せにドアを閉めると、その勢いのままケムリの襟首を掴んで、自分のほうへ引き寄せた。
「もちろん断るに決まってるでしょ!?」
低く詰め寄る声に、ケムリはもちろんだと頷き――しかしその瞬間、二人の間に入るようにして、ツツジが口を開いた。
「行かせてください」
思い詰めたような短い声に、ケムリとユウヒ、そしてマツラの視線がツツジに向く。
眼鏡の奥の茶色い瞳が愛妻に襟首を捕まれたままの師をまっすぐに見つめ、少年は繰り返した。
「その文書に僕が必要だと書いてあるのなら、どうか行かせてください」
「何言ってるの! 冗談はよしてちょうだい!」
ケムリから手を離したユウヒがツツジの肩を掴み、ケムリを振り返る。
「ケムリからも何か言いなさい。グランディスなんて、ツツジには向かないわ。あそこは荒くれ者の住む土地よ。苦労する事が目に見えてる。初めての仕事でツキサに長期滞在だなんて、どうかしているわ」
私だってあの国にいた事があるからわかると、ユウヒは目を伏せるツツジに言い聞かせるように続けた。
「仕事なら焦らなくてもまた来る。その時まで待てばいい。グランディスだけは、だめ。向こうで魔術師だってばれたら、潰されるわよ」
雨音を後ろに、低く発せられたユウヒの声は重くマツラの耳に染み着く。
ツツジへ仕事の依頼が来て、ツツジはそれを受けると言っている。そしてケムリとユウヒはそれに反対している。
自分とほんの少ししか歳の違わないこの兄弟子がどうするのか。マツラは彼らを見守る事しかできなかった。
グランディス行きが晴れやかなものではない事はマツラにもわかるし、不穏な噂だけが聞こえてくる隣国に彼が行ってしまう事に賛成か反対かを問われるならば、マツラも反対に一票を入れるだろう。
だが目をあげたツツジは、この依頼でなければいけないのだと首を振る。
「待っていても、僕には二度と五老からの依頼は来ません。師匠はきっと違う。緑眼のマツラさんも、きっと違う。でも僕だけは、この依頼を断れば二度と五老からの仕事は来ないんです。ダケ・コシで使い物にならなかった僕が五老に選んでもらえる未来なんて、二度と来ない」
魔術師はツツジの他にもいる。
年上の人間も、もっと色々な事ができる人間も。それでも、落ちこぼれと笑われた、まだ下位魔術師でしかない自分を取ってもらえた。
「この道を進む以上、五老から与えられる任務は最高の名誉だと、師匠もわかっているでしょう?」
「偵察なんて、君じゃなくても出来る事だとは思わないのか?」
必死な表情のツツジに対して、ケムリはため息混じりに返す。
誰でもいい任務なら、ツツジが行く必要はないとたしなめる言葉。しかし少年はスコの言葉を忘れていなかった。
「師匠、スコさんは言いました。誰よりも賢くて疑われる事のない人間が求められていたと。……僕は、確かに座学のほうが得意で、本山の学校にいる時もそれだけでした」
だがいくら知識を得ても、魔法は一向に上達しなかった。それでは魔術師として使いものにならない。紙の上の世界を現実に出来なければ。
「それでも、僕は誰よりも文字を追いました。師匠のところに来るまで、学校の誰よりもたくさんのページをめくった。頭に入れた物は、誰よりも多い。これだけは、同じ部屋で学んだ仲間たちに絶対に負けません」
カル・デイラに来てやっと、魔法も上達した。一人前にはほど遠いが、自信もついた。
「それに、僕は自分が無害な顔をしている事を自覚しています。僕がグランディス行きに選ばれたのは、ただの偶然かもしれません。でも、五老が捨て駒じゃなく、僕の経歴を知って選んでくれたのなら……」
こんなチャンスは二度と来ない。だからどうか、行かせてください。
頭を下げてツツジは繰り返す。
弟子本人に言われるまでもなく、ケムリも理解していた。
ツツジ・ナハという少年は、魔法の技術こそ未熟だが本山で詰め込んできた知識は同年の誰より多く、下手な中位魔術師では彼には勝てないだろう。
長いあいだ落ちこぼれだと言われ続けていたが故に、耐える根性もある。
だからこそ、ケムリはこの賢い少年に、その知識に見合った技術を身につけさせたかった。
ツツジがケムリのもとを離れるにはまだ早く、ケムリがこの弟子に教えるべき事は山のように残っている。
そして魔術師というものについて決定的に知識の足りない状態でカル・デイラにやって来たマツラにも、共に学ぶ友としてツツジのような存在が必要だと考えていた。
生まれ持った物のせいで、ツツジの魔術師としての技量は、いつか必ずマツラに追い越されてしまうのだとしても。