もともと手先が器用な方ではなかった。
それでも、母親がしているのに憧れて自ら針と糸を手に取ったのは、同世代のどの子供たちよりも早かった。
布の上に模様を描いていく作業はどこまでも楽しくて、飽きもせずに毎日毎日、針を動かした。
そうして、気付いたら誰よりも美しい刺繍をすると評価されるようになっていた。
けれど、マツラにあるのはそれだけだった。
マツラ・ワカという少女には、他に自慢できるものは何一つ無かった。
その日の昼前、扉を叩いたのは品のいい男性。
彼は村の人間でもなく、かと言って旅の装いをしているわけでもない。ただ、妙に目立つ黒いマントを肩にかけていて、それを留めている金具が明らかに安物ではない事だけがわかった。
ドアを開けたマツラに、男性は驚いたようにひとつ頷く。
「なるほど、君がマツラか。お父上はご在宅かな?」
柔らかい口調は警戒心をやわらげ、折しも男性の肩の向こうに家へ帰ってきたばかりの父の姿が見えた。
男性よりも一層驚いた顔をした父は、次に「よく来てくれた!」と早足で男性に近づく。
親しげに言葉を交わす二人を見てマツラが何よりも驚いたのは、父の知り合いに誰から見てもいわゆる“立派な”という形容詞の付く人がいたという事。
仕事もろくにせず、昼から飲みに出る事もしばしば。金にもだらしなく、暴力をふるわない事だけが唯一の救いとさえ言われ、誰からもだめ男と評されるこの父に。
「おとうさん、どなた……?」
もしやこの人からお金を借りたのではないだろうか。そんな不安が胸をよぎり、心なしか不安な表情で見上げた男性は、マツラの不安を知ってか知らずか「安心してくれ」と笑った。
「名乗るのが遅れてしまったね。私はダケ・コシから来た。魔術師のサッシ・ナタだ。どうぞよろしく、マツラ嬢」
「は、はあ……」
胸に手を当て淑女にするような礼をされ、驚きに目を見開いたマツラはそう返事をするので精一杯だった。
そもそも父に魔術師の知り合いがいるという事すら初耳だ。かつてはこの国も魔術師の国と呼ばれていたというが、今やその数も決して多くはない。何よりも“父の知り合いの“魔術師”という肩書きがひどく胡散臭く見えてしまって、マツラはじり、と半歩後ずさった。
どうしよう、少し変な人かもしれない。第一印象は悪くなかったのに。うっすらと浮かんだ予感をよそに、人当たりのいい笑顔のままサッシはなおも続ける。
「君の父上オフトとはね、まだ十代の頃に一緒に修行までした仲なんだよ。残念ながら彼は志半ばに山を去ってしまったが、それもまた道だろう」
「修行……?」
懐かしそうに語られた言葉に、理解に苦しむ部分があったような気がしてマツラはサッシの言葉を反芻した。
魔術師だと名乗った男が修行と口にしたのなら、結果それは魔術師としての修行なのだろうが、これもまたマツラには初耳。
魔術師は絶対仕事に困らないと聞く。数が減った現在では、仕事の依頼はひっきりなしだとも。
父が本当に魔術師になろうとしていたのなら、どうして挫折してしまったのだろう! もし魔術師になっていたならば、今のように生活に困窮する事もなかったのに!
この年齢になっても何をやらせても長続きしない人だ。若い頃からそうだったのは明白で、長い修行が付き物の魔術師など夢のまた夢だとわかっていいながら、消えた選択肢を恨めしく思ってしまう。
「やめてくれよサッシ、もう随分と昔の話だ。結局俺はこうしてただの農夫だしなぁ」
そして何故か恥ずかしそうに答える父、オフト。
このままこの二人の相手をする事は、マツラにはひどく困難に思えた。
どうしようかと一瞬考えたが、マツラが何か口を開くより先にサッシが笑いながらマツラの肩に手を置いた。
「それでもこうして、君の娘が志を継ぐんだ。あの日々は決して無駄では無かったのだよ」
まさしく開いた口がふさがらない。
誰が誰の志を継ぐと? この人は一体何の話をしているのだ。
感慨深げにしきりと頷くサッシの手から離れて、マツラは父を睨んだ。
「とうさん!! どういう事!?」
オフトの子供は一人しかいない。それは他でもないマツラの事で、彼らがオフトの娘と言えばもうマツラしかいないのだ。
「なんの説明もしないで、今度は何を決めてきたの!?」
今までもずっとそうだった。勝手に何かしでかしては、その後始末をするのは母とマツラだ。
好き勝手するのは自由だが、迷惑を被るのはこちらなのに。
「私に何をさせるつもりなの。今すぐ説明して」
低く、絞り出すように言う。新緑色の瞳は怒りに燃え、対してオフトは「そう怒るなよ」と困ったようにへらりと笑って頭をかいた。
そんな父娘を見比べて、サッシは呆れたように呟いた。
「まさかオフト、君説明してなかったのかい……?」
そもそも何が始まりだったのか、その時マツラの家はとにかくお金に困っていた。
仕事の続かない父に、元よりそこまで身体の丈夫でなかった母はとうとう過労で身体を壊した。しかし父は薬代ひとつ満足に用意できない。
これは自分がやらなくてはいけないのだ。
そう決意したマツラには、有り難い事に収入に変えられる技術があった。
他でもない、母に教えられたこの小さな町伝統の手仕事。
母から子へ、古くから伝わる刺繍は、マツラの住む町では女の作る伝統工芸で、起源はまじないだったという。
長い歴史の中で、まじないの意味はやがて薄れていき、その役割は魔術師に変わっていった。
それでも手のかかった美しい紋様や図柄は、地方の伝統工芸としてはとても質が高く街まで持っていけばマツラの作ったものでもなんとかお金に変えられる。
少女たちはある程度の年齢になれば母親から刺繍を習うのが風習になっていたが、同年代の娘たちの中でもマツラの作る伝統刺繍はとびぬけて美しかった。
幼い頃から母の指先で生まれてくる美しい模様を眺めるのが大好きだった。だから、同じものを作りたくて、その手法を教えてもらったのも、他の少女たちより少し早かった。そのせいもあるかもしれない。
一色の糸で、色とりどりの糸で。複雑に絡みあう装飾や、簡素な植物の図柄を描いていくことがなによりも楽しくて、夢中になって、数をこなすごとにマツラの腕は上達していって、年長者にも負けないようになった。
恋が叶う、友達と仲直りできる、健康になれる、家庭の安全、旅の安全を願う、戦の勝利、悪いものから身を守る。
元はまじないだったという刺繍にはさまざまな伝統模様とモチーフがあり、そのどれもに意味がある。その中にはもちろん恋を叶える模様もあって、それはこの刺繍をはじめたばかりの少女たちが作るような基礎的な模様ではあるのだが、年頃の娘たちはおまじないが大好きで、必死にこの刺繍に取り組む。
マツラの友人たちの間でもその例外ではなく、そして何故かマツラの刺したおまじないは絶対に効くのだと言われていた。
はじめは一枚試しにハンカチに。しばらくの後、その友人はめでたく意中の相手と結ばれ、それが始まりだった。
頼まれてまじないの刺繍を刺せば、信じられない事に彼女たちの願いは見事成就されていく。
マツラにとってはただの刺繍。それでも偶然が続けば、それはジンクスになる。
しかしその時、誰よりもそのジンクスにあやかりたいのは他でもないマツラ自身だった。
友人たちが熱中している恋なんて知らない。いっそこのまま知らないままでもいいから、とにかくこの状況をどうにかしてほしい。
街に卸す品物に、ひたすら刺繍をした。「どうか幸運が訪れますように」諦め半分に、けれど必死にそう願いながら。すべての品物のどこかしらに幸運のシンボルを縫いつけた。
願いが叶ったのかは知らないが、やがて家計は少しはましになって、しかしそれでも状況はなにも変わっていない。
父は相変わらず仕事が続かないし、それじゃあお金にならない。母にはもう無理をさせる事は禁物だし、マツラが針を動かすのをやめてしまえば、もうこの家はどうにもならなくなる。
生活するために、大好きな刺繍を仕事にした。そうするしかなかった。
自分がやらないと、誰にもどうにもできない。
だからこそ、この手を休める訳にはいかないのだ。
私は君を迎えに来たんだよ、とサッシは優しく言った。
マツラに魔術師としての修行を積んでもらいたいという彼の声に、マツラは冷たい目で彼と父を見比べた。
まるで売りに出されたような気分だ。食い扶持を減らす為に小さな子供を売ったり奉公に出させるのは良くある話。
自分はしっかり稼いでいる。年だってもう子供と言うには大きくなりすぎている。だから自分だけはそんな事にはならないと、どこかで自信を持っていたのに。
「……かあさんも知ってるの? ねえ、わかってる? 私がいなくなって困るのはとうさんなんだからね?」
念を押すように言えば、もちろん、とオフトは頷いた。
提示された進路は、今までのマツラの人生設計に全くもって存在すらしていなかった道だ。
一生、ここで生きていくのだと思っていた。やがてある程度の年齢になったら適当な人と結婚して、それでもずっと針を動かして。
頭の中は依然混乱していたが、ひとつ確実な事がある。
魔術師は数が少ないゆえに引く手あまたの職業で、食い扶持に困る事は無い。
「魔術師になれば……今よりも楽な生活ができるんですよね?」
まばたきひとつせず、サッシを見あげる。
「お金、稼げるんですよね?」
生活のために刺繍をしてきた。
本当に今よりましになると言うのなら、もっとたくさん稼げると言うのなら、それをやめて魔術師の修行をやってやろうじゃないか。
きらりと光ったマツラの新緑の眼に、サッシは唾をのんだ。
固く結ばれた唇と、決意を秘めた瞳。無言の迫力に一瞬言葉に詰まったあと、彼は意味ありげに微笑んで右手を差し出した。
「もちろんだよ。理由は何でもいい。こちらへ来る意志さえあるのなら、我々魔術師は喜んで君を歓迎するよ、マツラ」
彼らがはっきり言わないだけで、自分はこの魔術師と名乗る男に売られてしまったのだ。
サッシの微笑みにその思いは一層強くなる。
どれだけ幸運のシンボルを描いても、とうとう自分のもとへは来なかった。おまじないは、結局最後までおまじないでしかなかったのだと思い知る。
差し出されたサッシの手をゆっくりと握り返しながらマツラはたまらなく悲しい気分になった。そして予感する。
目の前の男の手を握り返した瞬間から、もう後には引けなくなった事を。
今日と同じ朝、今までと同じ日常は二度と戻ってこない。
これから過ごすであろう時間は、まだ見えない場所、途方もなく別の方向に向かって何もかもが変わってしまったのだと。